日常から切り離された
京都というと森見登美彦の小説が想起されるから、なんとなくフィクションの世界だと体が認識している。実際に降り立つと意外と京都っぽくないなと思ったり、一方で京都らしさが顔をのぞかせてその度にぴょんぴょん跳ねたりしていた。
もともとNUITOのライブを見に行く予定で立てていた算段が、インターネットのつながりで会うことになった人がいたりして非常に充実した二日間を過ごすことができた。二人でのんびり鴨川を眺めて「日常じゃないみたいだね」と話をしたりした。せっかくだからとじっとりした京都を黙々と歩いて京都大学や吉田寮も見てきた。引きこもりが体を使うと当然眠気が来るわけで少しウトウトしたりもした。ご飯も美味しかった。書きながら思い出しても小説のワンシーンを思い出すような不思議な感覚に襲われる。
ともかく楽しかった。
自分の体がどうなってもあまり気にはしないというか、私で消費してくれるならどうぞというスタンスだから、若いうちは人に迷惑をかけないように消費していきたいと思ってる。こういうと怒ってくれる人もいるんだけど、でも私の人生だからあんまり気にしなくてもいいかもしれない。まあ他人が似たようなことしてたら心配になるけど。もちろん優しい自意識も何だかんだで死んでないみたいでたまに振り返ってはウッてなる。だからって一人に依存してよかった試しがないし、普通の生き方って逆に何かわからないし。
他人の優しさ、それが偽りでも嘘でも言葉にするとそこには確かに何かが宿っているような錯覚が起きて、少しだけ安心できるから。味見するだけならとびきり美味しい今を誰かに提供して、その感想をもらってニコニコできるならそれでいいかな。まあ、迷惑だけはかけたくないけど…。
NUITOはすごかった。場所が悪くて手元があまり見えなかったのは残念だったけど、小さな箱特有の一体感と、音が飛び交う密室が無音になる瞬間がたまらなかった。誰がいつ死ぬかわからないから、私も生きてるうちに生きてる人に会わないとな。帰りにキャスターを久々に買って、ライターをなくしたことを思い出して少し落ち込んだりした。
しばらくライブはないみたいだしあっても遠方だから次行けるかわからないけど、まあ生きてるうちに見れてよかったなと思った。
メトロもいい箱でした。不健康そうな人と治安の悪さがマッチしていて良かった。
京都をひたすら歩き、インターネットの人たちにオススメの場所を聞いたりした。全部は行けなかったから次は行けたらいいなと思う。
蕁麻草さんに教えていただいたエレファントファクトリーコーヒーは時間つぶしでお邪魔した。細い小道を入り、少し急な階段を登る隠れ家カフェで、深夜だから人も少なくてこれぞイマジナリー折衷庵…となるなどした。何が?
コーヒーがあまり飲めないので飲みやすいのを聞いて、わざわざ飲みやすいブレンドで作ってもらった。苦味よりも酸味が強くて、砂糖を入れなくても飲めたのは初めてだった。美味しいコーヒーは美味しいんだな。びっくりした。
閉店ギリギリまでいさせてもらってコーヒーのお礼と少し雑談をしながら見送ってもらった。「締めが終わったら飲みに行きませんか?」と言っていただけて「小説みたいなことが起きている…」と笑ってしまった。次行くときは飲みに行けたらいいなと思う。
深夜になると飲屋街はやたら治安が悪くなり、酔っ払いに声をかけられたり車から「大丈夫ですか?」と聞かれたりした。そっちが大丈夫なのかよ。
友人が電話してくれたりラインで暇に付き合ってくれる人たちのおかげで深夜の京都は賑やかに過ごすことができた。
甘やかされてるなあ。と実感した二日間。
こんなに楽しい街があるなら、もう少し生きてもいいかなと思った。
もともと人間嫌いだったのに歳を重ねるごとに人のことが大好きになる。会話が得意になったわけじゃないけど、人の話を聞くのは好きだ。言葉から汲み取れる感情もあれば、表情や皮膚から伝わる人生もある。自分の体を使ってその人の人生をじっくり味わうことができるなら多少しんどくてもいいかなって思えるのはこのせいかもしれないな。
人に話せるような華やかな人生もコミュニケーション能力もないから余計かもなあ。だからお酒に頼るし、タバコに頼ってるのかもしれない。この二つ、かなりコミュニケーションに使えることに気づいてしまった。
美味しいってのもあるんだけどね。私のタバコはキャスターだから、会いたくなったら吸ってください。多少私の味を感じるんじゃないかしら。少なくとも私はその人が吸ってたタバコは特別なものだと思ってる。こんなこと話してたらタバコ吸いたくなってきたな。ライター!!
何はともあれ今は帰路です。
明日からまた日常が始まるし、実は全部夢だったって言われても納得してしまうような数日だった。主人公したなあ〜〜という気分。
悪くないね。楽しかったよほんとに。
お世話になった人、ありがとうございました。
また行くと思う。京都療法、アリですね。笑
暇なんで
暇なんでなんか書きます
言ったけど人生に暇なことはそんなにないね
暇の裏にタスクは潜んでて、「生きる」っていう圧倒的面倒だるいしんどい作業を並行でこなしながらなんとか人類生きてますね。
偉いね、営んでますね。営んでますか?
電車に乗る機会が多くてツイッター見てない間は結構外見てます。1秒で目の前から過ぎ去っていく箱の中に人間が確かにいる「ニオイ」を感じるのが好きで。だから団地も工場も好きなんですけど。
人間のために作られた箱の中に人間が生活してるの面白いな。電車だってそうだよね。動く箱に人間が乗って運ばれてて、人間のニオイがするもの面白いなって思う。
人間から逃れられない〜〜。
まあ人間でいるのダルいなって思ってるけど猫になってもイノシシになっても「だっる」って思ってるだろうし、寝転がればご飯が出てくる今があるから生きてるんだろうし。
人間だと意外と面白いことにも会えるし。
そういう時はやってて良かったなって思う。
面白いことは「人間に会う」ことだね。コミュ障だから何言ってんだよーって感じなんだけど、リアルに他人の人生に触れることほど楽しいことってないね。
「私たち似てるね」なんて会話しても1〜10まで同じことありえないでしょ。似てると思ってたら実は全然似てませんでした!ワオワオ!なんてこともあって、私はツイッターで500%の力で発言してるからリアルは20%くらいでしか話せないし。その人が生きてきたものに言葉や体で触れるとどれだけ人間ぽくなくても「人間なんだなあ」って思わざるをえないし。
人間が嫌いになることがある中で20歳くらいから急激に人間が面白くなってきちゃったから、だから誰かに会おうって必死になってるんですよ今。お互いいつ死んじゃうかわからないから。できる限り誰かの人生に触れたい、私の人生には触れなくていいですよ。面白いもんじゃないから。あと会うとかなりつまんないな…私…。
20で死のうと思ってました。
でも今21、おそらく22は迎える。
結局死ぬのは怖くて、死んでからおそらく何か面倒なことが待ってる予感があるから。私は新しいことを手探りでやることが苦手なので、死んでからもなんかミスして誰かになじられるとか無理だし、だったらある程度可視化されてる未来を生きた方が楽だなって思う。今はね。
明日になれば死ぬかも、死んでないかも。
誰かの言葉で許されたり落ち込んだりするけど、その言葉は空虚かもしれないね。私もどこかで誰かを言葉で殺してるかもしれないな。小学生の時話してただけなのに急に泣き出した女の子を知ってるから。高校でも一回あったな。悪いことしたな。もう謝れないけど。
言葉に抱いた不快感は事実だから。辛いもんは辛いから。
言葉の重みねー、おっもいよね。考え出すと何も言えなくなるからあんま考えたくないな。
メンヘラ各位、おそらく常に辛さと向き合って生きてるから、何かができない状態が通常で、何かができる時は「上がってる」時だと思うから、うまくマッチできたら会えるといいなと思います。落ちてるなんていつもだよね。生きてんねー。生きててくれてありがとね。
久々にライブ行って、今週末も行くけど。
女王蜂だけは神様に見える瞬間があるな。無意識に拝んで「カミサマカミサマ…」なんていうことなかなかないでしょ。
生きてるうちに見れて良かったな、これからも何回も見たいな。
あとなんだ…書くことないなー、
ツイッター見よう。
半年前まで女じゃなかった。
半年前まで自分で化粧品なんか買ったことがなくてスキンケアの仕方さえ知らなかった。化粧水や乳液とかいろんな種類のものがあることを知ったのも最近。肌の色によって下地の色を変えなきゃいけないっていうことを知ったのも最近。「化粧しなきゃダメだよ」と知り合いに叱責されたときも「可愛い人が見栄えをよくするためにすることをなんでブスがしなきゃいけないの?」と本気で思っていた。着飾ることが恥ずかしかった。だってどれだけ足掻いたってブスはブスのままなのに、美容院でモデルと同じ髪型を頼むのが恥ずかしいように、誰かになりたい美しくなりたいって思われてるんじゃないかって思ってたから。自分の顔が好きじゃない。乾燥する肌が好きじゃない。地味に肌荒れする肌質が好きじゃない。鼻の形が好きじゃない。整えてもすぐにはねる髪の毛が好きじゃない。眉毛の形が好きじゃない。厚いへの字の唇が好きじゃない。好きじゃないものを見つめながら向上心を持つなんて恥ずかしくてできやしない。服も適当でいい。そんな適当なのにいっちょ前に承認欲求だけは爛々と輝いていて、誰かと比較しては「けっ」って思ってた。卑屈なブス。
その考え方を変えてくれたのがアイドル。去年の初めにでんぱ組.incを好きになった。おそらくアイドルの中でもぱっと見で「かわいい!」とはならない。ファンでも思う。でも動いてるのを見たり写真を見ていく中で「めっちゃかわいいな…かわいい…なんだこれは…」とユラユラ感情がざわめくのを感じるようになった。アイドルは自分が一番かわいい瞬間を切り取って精一杯生きている。まぶしい。素敵。大好き。「可愛い」に価値がどれだけあるか思い知らされた。「可愛い」ってすごい。見るだけで生きる力が湧いてくる。でも、だれしも最初から輝いているわけじゃなくて、そりゃ元から綺麗な子だっているんだけど、ほとんどのアイドルは一生懸命自己プロデュースをして、急に花びらがわっと開くように美しくなる。昔の写真と今の写真を見比べて本当にすごいって思った。整形なんかじゃどうにもならない「可愛い」って存在するんだよ。可愛くなろうとする努力が「可愛い」へ近づく絶対的条件なんだよ。年下の女の子見て気づかされちゃったよ。気づいたのが21になる直前ね。
遅すぎたと思った。
遅すぎでしょ。無理。高校の時なんてスカートなんか曲げたことなかったし髪の毛にも頓着がなくてずっとおかっぱだったし。大学に入っても化粧なんて1年に10回もしなかった。もちろんすっぴんで登校してた。自分を着飾る努力すらしないで他人から承認されたいなんてバカみたいな話があるかよ。ちょっとお金出せば買えるんだからそれくらいしろ。バカ。着飾ることは「自分のため」であり「他人のため」でもあるんだよ。やっぱり見栄えっていうのはどうあがいても大事だし。綺麗に置いてある商品の方が見てもらいやすいもんね。簡単な話だよね。それをこじらせた承認欲求で先延ばしにしてたバカはここですね。馬鹿じゃないの。馬鹿。
遅すぎる女性化を果たした今、試行錯誤しながらなんとか「女」をやっている。それまではなんだったんだろう。わかんないけど、少なくとも「女」ではなかったな。だから着飾る努力をせずに承認してもらおうとしている人を見ると過去の自分を思い出して「ありのままで好きでいてもらえるなんて思うなよ!!!!!!!!!!」と思う。ありのままで好きでいてもらえるなんて思ってましたか?随分おめでたいですね。一生そのままでいてください。自分でハッとするまではそのままだから。私がそうだったから。「女性」という存在価値に胡坐をかいて誰かに振り向いてもらおうとか思ってるのかな?思ってるの?そっかぁ。
可愛い服を着ても顔にお金かけてないんじゃやっぱり野暮ったく見えてしまう。素敵な服のためにも自分と会ってくれる人のためにもよそいきの自分を作ることは必要だと思うんです。少しでも気持ちのいい思いしてほしいじゃないですか。「自分のために綺麗にしてくれたんだ」って思わせれたら嬉しいじゃないですか。そんな他人のために生きるとか面倒かな。ごめんな、承認欲求から生まれた人間だから、他人から認められることに人生見出しちゃってるんだよな。あなたはどうかそのままでいて…。
後、化粧自体めちゃくちゃ楽しい。これは本当に。そういう記事を書きたかったんだよ。なんかメンヘラ.JPに自撮りと醜形恐怖のソレが出てるね。自撮りは詐欺って言われますけど詐欺ってなんぼだと思いますよ。ちょっとでも自分の顔を愛して生きていこうな。
また今度にします。諸々。
占い
占いは信じる。
信じるというよりは、その日のモットーくらいに思っている。
当たれば思い出すし、当たらなかったらそのまま忘れるので、占いとは良いお付き合いが築けているという自負がある。
そんな私は毎朝寝ぼけながらLINE占いを確認して1日が始まる。
今日は飛びぬけて運勢が良かった。5つの王冠が爛々と光輝いている。
雨が降っていたけどそこまで体が重いわけでもなく、学校に向かうことができた。
最近はもっぱらSHISHAMOやウルフルズを聞いて登校している。
朝の空気に軽やかな女性の声は心地よく、ソウルフルな男性の声は精神にエールを送ってくれる。
流れる音楽に合わせて指でリズムをとるのが好きだ。音と体が一体になる幸福を指先で味わえているからかもしれない。
体全体で味わうならライブに行かなくては。6月末に女王蜂のライブに行きます。
講義室に到着する。講義を受ける。終わる。
身体が随分慣れてくれたおかげで、学校はとても楽になった。
親が作ってくれたおにぎりを食べながら携帯を触っていると後ろから声がした。
一つ下の男の子だった。学年は一緒。学科も一緒。
趣味がライブらしく、前からカバンについているラババンをみて話しかけたかったらしい。学科が学科なので趣味の合う人間がいない気持ちは痛いほどわかる。私は彼に同情した。
連絡先を交換し、自分の好きなバンドの話をした。ツイッターはやっていないことにしておいた。怖いから。
そしてニコニコしながら滑らかに会話をフェードアウトさせた。
17時にある用事まで一人でのんびりするというタスクをこなさなくてはならなかったからだ。
一人になれる場所を探ししながら、ナンパだったと気づいた。ここ数年で姉と「ナンパ会談」を定期的に行っている身としては一抜けした形になる。我々は周りのナンパ話を聞いて都市伝説だと信じて疑っていなかった。それが身をもって存在すると確信した瞬間、UMAを発見した学者のような気持ちになった。恐らく。
姉には多少の申し訳なさを込めて
「ナンパされた!!!!!!!」
と送信した。
数十分後、
「まじかよ!!!!!!!」
「私より先に!!!!!!!」
と返信が来た。
知能指数は似ていると思った。
17時の予定を済まして家に帰ると以前連絡していた人から連絡がきた。
風邪をこじらせ入院し、退院した後に学会の発表で今はアメリカに来ているそうだ。
代用機からわざわざ連絡してくれたとのことで、一先ず「ありがとう」と伝えた。
いや、この1ヶ月弱で諸々起こりすぎやろ。
と言いたかったけど黙っておいた。
週末に姉が帰ってくるのでバイトを入れないことにした。
バイトがなければほぼ暇なので、いろんな人とやりとりしてもらってるのは本当にありがたいことだ。
各位、ありがとうございます。
と、ここまで書いて占いのことを思い出したのだ。
運勢は良かったけど、なんて書いてあったっけ。
トーク画面を開く。
「対人運が好調。特に同じ趣味を持つ仲間と良いコミュニケーションが取れるでしょう」
やっぱ占い、当たるな―。
終わり。
こ、殺さなきゃ。
派遣バイトで死ぬほど疲れた状態で脳が加速し、眠ることができずに朝を迎えた。
正確には数時間眠ったのだが、数時間ではまとまらない情報量の夢を見ていたので起きているよりも疲労感がすごかった。
シクレストを飲んでいた時以来の激夢だった。
何とか起き上がり出発をした。風が皮膚を貫くような感覚を覚え、皮膚が剥がれないようにしっかりと腕を撫でた。
身体が冷え切っている。
世界全体が攻撃を仕掛けてくるのを感じた。
怖くなってつい、デパスを飲んだ。電車の中で安いお茶とともに流し込む。
一瞬だけ安心した。
20分も経つと床がマットのようにボフボフと靴底の圧力に反発してくるようになった。安い反抗は足取りをもたつかせた。
踏みしめるごとに「ボフ」とも「ギュイ」ともつかない感覚が体を揺らすのだ。
これは非常に不快だった。
すぐに全てが宇宙と交信し私の脳に住む人間を懐柔する感覚を得た。情報を傍受する焦燥感と脳の大事な部分がかすみ、押し付けられる圧迫感。
これも非常に不快だった。
周りにいる人間全員の面にぼかしがかかったような感覚があるのに、はっきり物体として目の前に存在する。彼らは集積し私にのしかかってくる。「ぐうーーーーー」と彼らはうずくまったかと思えば「きりきりきり」と小刻みに揺れる。
最後に言葉の概念が消えた。大量の音声が攻撃してくるのを感じた。
不快を通り越して恐怖に変わり「なんだ…なんだ…」と机に向かって呟いた。なにをしたっていうんだ、猫が宇宙に変わる。宇宙が立ち込める。宇宙が具現化する。宇宙、宇宙、宇宙…
少し寝て、4時間で意識が戻った。2度と日中には飲むまいと決めた。
・・・
去年の冬には周囲の学生を殺さなくてはならないという感覚に押し殺された。
「大学生」という規範から遠くかけ離れてしまった自分が、「大学」という拘束された世界に存在していることがたまらなく恐怖に思えたからだ。
・・・薬を飲む、眠れない、朝を迎える、希死念慮、薬を飲む、眠れない、朝を迎える、希死念慮・・・
終わりのない虚無を生成するライン作業をこなす中で、周囲の人間は何事もないような顔で日々を鮮やかに過ごしている。大学に行けばそれを嫌でも自覚することになる。
同世代の笑顔に殺される。「たわいもない」ということが己にとってどれだけ稀有で、離れた存在であることか。
彼等とは明確に世界が違うはずなのに、社会から与えられた「大学生」の規範から逃れることができない。
自分を殺すことは満足にできなかった。だから殺すしかなかった。
しかし殺すことで自分の罪悪感や焦燥感を拭うことはできない。
ただ、彼らは確実に自分を抹殺しようとしている。
妄想か現実か判別がつかないくらいには「誰かに殺される」という思考が脳内を支配していた。
サークルの人間に無断で休んだことを弁解するときも、うっかり「全員を殺そうと思った」と呟いたことを思い出した。
おかげで同期からの人格否定と罵詈雑言を退職祝いとして辞めることができた。
久々にその感覚を思い出した。
社会が怖い。社会に帰属できる気がしない。
再び自覚させられる覚悟はしていたが、やはり辛いものはつらい。
まだ諦めきれていない自分がいたこともつらい。
殺すべきは他人ではなく希望なのかもしれない。
「ザ・インシデント」を観ている。
薬を飲むときは一人ずつ確認しないのかなあ。と思っている。
映画は面白い。
終わりです。
諦めは後退ではない
生きることで様々なことを諦めるようになる。
それなりにいろんな経験をしてきたような、してないような不明瞭な人生の中で、諦めは大きな意味を持つようになってきた。
それが辛いことだったような気もするし、意外と気にならなかったりもする。
もちろん、後から思い返して「諦めなきゃよかったなぁ」と後悔することもある。
楽器がそれだ。一つでも続けておけば、もう少し深い人間になれていた気がする。
受験とか、病気とか、そういうきっかけのなかで「諦めざるを得ない」現実に直面したのが大きいのかもしれない。
これは私が人より大変だとかそういうことではなくて、生きている人間だれしもが辛い選択を強いられていると思う。あえて書いておきますね。
私は大変ではないです。大変だと思わせているのは脳の構造のせいです。
あと、そうやって「苦しさと向き合うこと」を諦めることでかなり生きやすいということに気づいてしまったのもある。
それはそれでいいと思う。
思考が加速していく中で諦めなければならない範疇は確かに存在する。
相手の気持ちまで考え始めたらその思考は途方もなく、救いもなさすぎる。
こういう話を書こうと思ったのは「可能性」の話をツイッターで見かけたから。
私は「可能性」に縛られて高校時代を生きたので、この言葉にどれだけの魔力と拘束力があるかは十分に理解している。
「可能性」は思うように可視化されない。素直に受け取ることも、発信することさえままならない、非常に繊細で危険な概念だ。
個体値というのも残念ながらある。「才能」とか「地頭」ってやつ。他の教科は勉強しなくてもせいぜい50点は取れていたのに、物理だけは何をしても32点しか取れなかった残念な私の頭が証明している。(欠点じゃないことが奇跡だった)
そういうことがあるから「可能性」っていうのは人を苦しめることになる。
「好き」と「才能」が合致することなんてまずない。
でも、どっちかっていうと個体値よりかは、「やり続けられる力」を「才能」と呼びたい。
大成しなかったとしても何かをやり続ける気力、時間、浪費、全てを気にせずに没頭できるのは「才能」ではないだろうか。
それが社会的によいかどうかではなく、何かに己をささげることで人生が豊かになるのであれば、存分に才能を発揮したい。あくまでも私はそう思う。
ひょっとしたら、何かの間違いだったとしても小さな芽が出るかもしれない。
暗闇を永遠に掘り続けながら、いつかシャベルに音が当たるかもしれない。
その途方もない「かもしれない」に「可能性」を見出すことこそが「才能」なのではないか。
不格好でも、ダサくても、がむしゃらにやるのはかっこいいと思う。
なのでがむしゃらに生きようと思います。才能なさそうだけど。押忍。
で、「諦め」と「可能性」を結びつけたのは、諦めることですべてが終わってしまうのではなく別の可能性を伸ばすという方向に考えられないかと思ったから。
全部を追いかけていたら何も得ることができないように、休むという選択や仕事を辞めるという選択は「自分を生存させる可能性」を明らかに伸ばしているわけで。
生きていれば何でもできるんですよね。できないときは「できる可能性を養っている」って考えていけたらいいなと思う。
何回でもいうけどあくまでも私の人生観なので、自分の生きやすい道を見つけることが生存戦略。
そう思う中で、誰かと誕生日が同じとか、有名な人と同じ境遇であるという事実は絶対的で、揺らぐものではない。
ただそれを目標にするのではなく「持続力をチャージするもの」として利用するのが良いのだと思う。自分は相手になれないし、相手も自分にはなれないから。
上位互換とか下位互換のことを考えるのではなく、自分本位でもう少し図々しく生きてもいいのでは?
誰かになろうとするの、絶対疲れちゃうでしょ。
別の個体になるんじゃなくて、自分を永遠にアップグレードしていきたいな。
最近は幸せです。新たな楽しさに気づいたり、バイトを始めたり(今日は電話できなかったけど)、少しずつ自分がアップグレードしている実感があります。
今はエスターを見返して「こんなところにも伏線が…」とニコニコしている。
デフラグして中身の整頓をしたり、そこで空いた隙間に何かを詰め込むような人生を生きていきましょう。それには休憩が一番必要です。
バカみたいな文章だ。終わり。
あの私が
半年前、リーマスの副作用で文字が書けなくなり、パニックが起きれば目や口が勝手に動いてしまうような、いわゆる「限界」をさまよっていた。
学校に強制的に連れて行ってもらい道端で倒れたこともあった。通学路で倒れたときは警察に通報された。
バイトを辞め、サークルもやめ、学校にも行けず、人の家や病院との往来のみの生活。
「今日が死に日だ」とハンガーで首をくくろうとしたこともあった。衝動に身を任せて携帯を投げるおかげで壁に穴が開いた。
人に暴力を振ったことも少なくなかった。
罪を水に流すことはできない。流すべきではないんだとも思う。
二度と社会生活が送れないと確信し手帳もとった。
「限界」のなかで生き延びていく道を選んでいく準備を整えていた。
***
二週間前までは電車で通学なんてできないと思っていた。
案外脳みそは頼れるものがなければあきらめも早く、電車に乗り、歩き、バスに乗り、広いキャンパスの中をてくてく歩いて90分の拘束を受け入れている。
それが体にいいとか悪いとかではなく、そうしなければならないし、実際社会に溶け込むことが私にとって一番の薬であることが証明された。
身体が動く、一人で名古屋に行ける、人との交流を重ねて、多少の過ちは犯したものの人生に変動があったわけでもない。
明日も電車に乗る。ゆられながら古本を読む。音楽を聴いて、喧騒を少しだけ抑える。眠たければ寝る。自由に過ごす。
外で自由にできる事のすごさ、というものは、できなかった時間がなければ自覚できなかっただろう。
そういう意味では限界をさまよったことが無意味だったとは思わない。
二度と体験はしたくないけど。
バイトの面接が明日に控えている。単発だからクローズで行こう、体を見てもらえば虚弱なのは伝わるだろうから、相手のお願いを素直に聞かないように、ペースを崩さないように。いざとなれば手帳を見せて病気の説明ではなく、自分の体調の説明を相手に伝えよう。これも社会に出るまでの練習。自分のことを伝える練習をする。
そんなことを考えながら。
あの私が、バイトの面接に行くなんて!
きゃー!すごい!あなたそんなことまでできちゃうの!
と、私がぴょんぴょんはねている。
一方で。
畳に取り込まれかけていた私も消えているわけじゃない。
畳から半分だけ浮き上がって「調子にだけは乗らないで」と訴えかけている。
乗るもんか。乗れる身体じゃないことくらい3年もたてば分かる。
あの私が背中に寄り添っている。今の私はそれを無視したりはしない。
ということで、明日は行ってきますので。みなさんに良い報告ができたらいいな。
「バイトと勉強を両立する大学生」がゴールだったので、テープを切れるかもしれないな。
やりたいことが未来にできたから、頑張ろう。
***
あの私が自炊をしたこともビッグニュースです。
1年後には驚くくらい美味しくてきれいな何かが作れているといいな。
ビフォーアフターして全員泣かせる。見てろよ。
焦りの味がするテャハハーン。
みなさんも良い夢を。おやすみなさい。