あんまり死なない方がいいですよ。

この一年で体験したことを遺しておく。

語る

食事は栄養摂取です。娯楽で食べるのは寿司だけ。

寿司はいいですよ。自分で食べる量を決められるのが素晴らしい。小食な私にはファミレスの定食はどう頑張っても食べきれないんですね。おいしさもさることながら様々な種類のネタを食べられるのも良いですね。魚は見るのも食べるのも好きなので、私をデートに連れていくなら回転寿司がオススメです。お寿司食べる時が人生で一番ニコニコしている瞬間だと思います。歴代の彼氏全員に「お寿司より好きだよ♥」と言ってきたので…。でも寿司を本当に超えた人は…いない…。

 あと食事自体について話とすれば、食事自体コミュニケーションの一環であると考えています。結婚したら毎日顔を合わせてすることになるし、食事で波長が合わない人とはお付き合いしないほうが良い気がする。食べ方にそれまでの生き方が多少見えてくるし、それだけ人生から切り離せない行為なんだと実感します。

あと…人が食糧買ってるのをみると恥ずかしくなる謎の性質があります。なんでだろう。生々しいからかな。

 

私…?21年間自分としか向き合ってこなかったんですが、それでも謎が深まるばかりです。自分の体と思考のはずなのに他者から見た私と自己の評価が全く違うんですね。驚きの連続。そのすり合わせや確認がしておかないとどんどんズレていってしまうから、他人から自分がどう見えているのかついつい聞いてしまいます。かまってちゃんでごめんね!

 他人に興味を持つことはあまりないです。中身よりは表出される文章や音楽に惹かれますね。そこからどんどん内面を知りたくなって…みたいな。好きなタイプはサイコパスです。頭のおかしい人が好きです。そのおかしさが文章にうまく出し切れていないとなお最高ですね。興奮してきた。

 

…ここでの説明はもしかしてプロフィール的なモノかしら…?

sushima、1留のFラン大学3回生。女。21歳。好きな食べ物はお寿司。

学歴コンプと双極性障害2型に苦しめられ、統合失調症と仲良く暮らしている。

酔っぱらうと死生観の話をしだすので一人酒で迷惑をかけないようにしている。

SUZURIで販売したりしている。歌も詠んでいるTwitterが得意。

 

以前「自撮りばっか載せてると馬鹿っぽく見えるよ」と言われた。

その通りだと思う。女の自撮りはとても需要がある。多少ブスでもそれなりにふぁぼがつくことが己で証明されてしまった今、つい載せてしまう。ふぁぼが増えるたびになにかヤバいものがドバドバ放出される感じがする。嬉しいともっと何か欲しいと思ってしまう自分の欲求に気づかされる。エロ垢や女神はその欲求が行きついた先なんだろうな。

文章に気合いを入れなくても、絵を描かなくても、身一つで承認欲求が満たされてしまうならそりゃ馬鹿にもなる。顔が良くて面白い女、マジでいないもん。

 今もたまに載せたり消したりで自撮りから離れられるようにリハビリをしている。あのアカウントでは女性性を売る必要がないと感じたから。文字や絵を見てほしい。そこに私の生身は介在してほしくない。「私だから」見るんじゃなくて「この作品だから」という感情で評価してほしい。わかるかな…。

 

大好きなお友達、性に奔放なのにしっかり乙女な性格の子が多いことに気づきました。 

現実でもネットで出会った子でもそうです。女の子らしくて面倒なんだけどかわいい。私は口下手だから相談ごとに全くアドバイスができないたちで、うんうんって聞くことしかできないのが歯がゆいですね。

あとはお化粧やオシャレに余念がなく、可愛いを信じて生きている人。毎日コンディションが最高なことってなくてそんな日々に一喜一憂しながら、それでも前を向いて自人生を突っ走っていく人が大好きです。振り回されても「すげえ!」って感心しちゃうから、いいなあって思います。

 

鍵垢:希死念慮

最近めったにないですね。「死にた~い」は毎日思ってるんですが、希死念慮並に強いのは来ていないです。自殺するときってどれだけ強い衝撃が襲ってきても、死ぬ間際はそれをはるかに凌駕する理性と恐怖が食い止めにかかってきますよね。脳みそがバグっちゃってるんだなあって悲しくなったのを覚えています。

これを送ってくれたあなた、できることなら死なないでね。

 

 楽しいです!今は買ってくださる方もいるのでありがたい限りです。まだ自分にリスクを伴う形で取引をしていないので実感が少ないんですが、本当にうれしいです。買ってくださった方ありがとうございます!

実は1枚の絵に10分もかけてないんですよね。長くても15分くらい。下書きもなしの一発描きです。適当に描いてるって言われても仕方ないんですけど、私時間かけて描くとだめなんですよ…。インスピレーションで「この形!」っていうのを頭に描いて出力するようにしてます。スピード勝負だね!

 

鍵垢:生きる上でこれだけは無くせないもの

文章ですかね…。入院時、ひたすら文章を書いていたのが大きいです。数冊のノートに同時並行で小説を書いて、ネット中毒の私が誰とも連絡が取れない空間の中で楽しむことができていました。その時に「将来は文章で食べていきたいな」って改めて思ったんですよね。その後小説よりコラムや評論向きだといわれてなるほどたしかに…となり、こうしてブログを更新している次第です。

文章がないと私は心中を明かすことすらかないません。心の底から文章があってよかったと思いますし、これからも愛し続けていくんだと思います。誰かの目に留まるのもうれしいけど、自分で「いい文じゃないの…」ってなる瞬間が一番好きかもしれないです。

 

たくさんほしい。たくさんほしいけどそのためには働かなければならないのが社会。

今はパソコンでできる仕事をいただいています。立ち仕事をするには体重が落ちすぎたのだ…。派遣せっかく登録したのに1回しか行けてないの。ダメダメだ。

お金がないと楽しむことすらできないんだから、精神障害者になって一番不服なのはここですね。自分でお金を稼ぐとこまでなかなかいけないっていう…。

 

天真爛漫!好きなモノには一直線!かと思えばどうでもよくなっちゃったりするお天気ガールだね。

アイコンかわいいよ。それ一番好きかもしれない。笑顔が一番ね!

 

お化粧は難しい…自分が満足しててもダメな時もあるし、でも楽しい!

私デパコスの雰囲気が怖くておそらく現段階では買いに行くことは不可能なんですけど、プロの人にメイクしてもらいたいな…っていう欲求はあります。

モデルさんたちも自分たちの魅力をプロに引き出してもらって美しくなれているわけで、そういう機会に恵まれていない分自分で頑張らなきゃいけないなと思います。

今度友達と高島屋のあれにあれしに行く予定なので自分のあれがわかるといいな。

みんながどんどん綺麗になる努力してるの見るのもニコニコしてしまう。負けないように頑張らねば…。

 

 人からの愛されで人生を世渡りしているすごい人。自撮り送らずにいたら電話までかけてくるのはさすがにびっくりしたよ…あなた躁転今回激しいわね…。

明日はどんな一日になるかな。楽しもうね~。

 

以上

箱舟

昨夜、童貞を捨てた。

勇んで捧げた僕の意思はあっという間に飲み込まれ、ぬるぬるとした感覚の中に脳みそが溶けていった。気持ち良さを感じる暇がないほどに激しく、僕の上で必死に揺れる四肢がたゆむたび「あ」「あ」と声が零れる。重さに耐え切れず呻くと、彼女はニヤ、と笑っておもむろに唇を奪ってきた。

息苦しさと汗ばんだ空気、ラブホテルの一室で感情のない行為が繰り返された。3回果てた後、僕たちは布団に沈み込むようにして寝た。抱き合うことはしなかった。

彼女は終始苦しそうで、何かにとりつかれているようだった。それほどまでに猟奇的だった。

 

そもそも僕はセックスに憧れがあり、一人で果ててはごつごつとした指の感触に嫌気がさしていた。そこにやってきたのが彼女である。インターネットで知り合い、1か月やり取りをしてセックスをする運びになった。その間に何度も自撮りを送ってきてくれていたし、僕もそれを甘んじて受け入れ、ありがたく使用させてもらっていた。

 

「自分の輪郭がわからないの」

それが彼女の口癖だった。彼女の腕にはびっしりと自傷の痕がこびりついていて、僕はそれを素直に気持ち悪いと思った。でも、それを言ってしまえば関係は切れてしまう。なんとか彼女に気に入られようとわずかばかりの語彙力を駆使して返信をした。

「そんなことない。あなたは美しいよ」

精一杯の相槌と、それに見合う報酬としての自撮りで僕らは関係性を保っていたように思う。僕はそれ以上の他意はなかった。セックスができればそれでよかった。

 

彼女は眠っている。何も聞こえない。あまりに無音なので思わず近寄って確認したが、どうやら生きているようだった。肌に触れてみたが特に反応はない。スマートフォンを確認するとまだ朝の8時で、起きるには早すぎる時間だった。

外の明かりが一切入らない空間で、タバコをふかしながら昨日までのことに頭を巡らせる。

風呂にも入らず、ただ欲を満たしたい一心で打ち付けた夜があっという間に過ぎ去った。日常が戻ってくる。耐え難い、地獄のような日々が箱の外で動き始めている。

衝動の余韻がかき消される恐怖に襲われ、僕は慌てて頓服を飲んだ。震える手で顔を覆う。ひたすらに悲しくなって、ベッドの淵でうずくまるようにして泣いた。

 

「泣いてるの」

彼女は起きていた。僕はこの人の名前さえ知らない。言葉を探しているうちに「おいで」と言われ、素直に従った。女性の肌は柔らかい。思い切り抱きしめられた息苦しさは悲しみを加速させるのには十分だった。ひとしきり泣いて、そのあとにおずおずとキスをした。彼女は何とも思っていないようだった。

 

「人生がつらい…これから始まる現実が、耐えられない」

初めて会った人に抱きしめられながら、こんなことを話す日が来るとは思わなかった。彼女は「そうかあ」とだけ呟いて、僕の目をじっと見つめた。彼女の眼はどこを見ているかわからないほどに暗く、吸い込まれそうだった。

 

「一緒に死のっか。どう?」

笑顔で話す彼女の言葉に嘘はないようだった。

 

言葉の返答に詰まる。

無音の部屋に、そっと現実が入り込んできた。

 

子供が嫌いすぎる

すっかり秋ですね。sushimaです。

 

 

突然ですが、こんなアンケートを日中に取ってしまうくらいには子供が嫌いです。マジで嫌い。微笑みかけられても顔が引きつるくらいには嫌い。とにかく嫌いなんです。

でも、嫌いには絶対に理由がある。なので今回は「どうして子供がこれほどまでに嫌いなのか」について列挙していこうと思います。

子供が好きな人は見ないでください。一生分かり合えないと思うので。

 

 

可能性が膨大すぎるところが嫌い

まずこれですね。5歳の子供とか平均寿命考えたらあと80年人生をやっていかないといけないわけじゃないですか。怖くないですか?

生身の体に敷き詰められた膨大な可能性を考えるとめまいがしてくる。それに対する社会の期待。いつかはこの幼児が社会を動かしていくという事実。

その中で自分の人生も同じように、めまぐるしく、老いながらも時間は加速していくことを思うと吐き気さえ覚えます。

子供は社会なんです。体現された未熟な社会がこれからどう成長し、歪んでいくのか。私は他人に感情移入すると止まらなくなるので、幼児の集団を見ると暗い気持ちになってしまいます。

「なんかみんな幸せそうだけどこのうちの何人が社会から離脱していくのだろう…」

未熟な社会がぶすぶすと腐敗していく様子を自身の体で経験してきたからこそ、よりリアルに情景が思い浮かぶ。故に子供を見ると恐怖を覚える。視界に入らないでほしい。

 

通信手段が乏しいところが嫌い

言語が未発達は人間として致命的すぎる。人間を名乗るべきではない状態なのに、人権はちゃっかりもらってるところが腹立たしい。絶対に殺せないじゃん。

ただ赤子のすごいところは自分が楽しくなくても微笑むことができるシステム。なんだそれ。メンヘラにもつけてくれよ。そしたら多少は世界も明るくなるわ。バイト先での人間関係も円滑になるわ。

彼らはそのシステムを使うことによって両親に対する庇護欲を駆り立て、何が伝わることがなくとも衣食住がゲットできるというわけ。赤子の微笑むでニヤついてしまう人間の精神構造が憎い。パンダと一緒だろ。あいつらも人間の庇護欲駆り立ててセックスが一大イベントになっちゃってるじゃん。赤子が起立しただけで大盛り上がりじゃん。なんだそれ。なんだそれ。生理的微笑をスキルとして身に着けたい。

 

感情の押し付けが異常すぎて嫌い

先ほどの言語が未発達にもつながるのだが、言語が未発達なくせに感情は5倍の力でぶん投げてくる。謎すぎる。言語と感情の力関係わかってやってんのか。お前の動作性ではその甘酒を持ち上げることはできない。父親も止めろ。それは商品であってお前のおもちゃじゃない!!!!!!人生にルールがあることを知ってくれ!!!!!!!子供!!!!!!!!!!!!てかなんで甘酒チョイスなんだよ!!!!!!!

でも子供は殺せない。他人の子供だと叱ることさえはばかられる。そもそも関わりたくないから遠目から幼児の悪行を眺めるだけになるんだけど。感情の暴力に大人が振り回されているのも情けない話だけど、でもそれが子供だからしょうがないよね~なんて言ってる大人も大人だ。

殴られたら殴り返せ。目には目を、歯には歯を。暴力には暴力を。

ハンムラビ法典を信じろ。

 

あっさり死にそうで嫌い

動物も同じ理由であまり得意ではない。動物も意思の疎通が難しいから、子供と動物は人間というより「モノ」に近い。モノを育てなければならないという責任感の重さが私に存在していないので、育児を任された場合確実に死なせてしまうと思う。

そう、その弱さが嫌なんだよ。大人になって分かったけど成人を迎えて急に大人になった感覚がなかった。つまり子供を産んだ瞬間に意識や行動が母親や父親になる人間は絶対に存在しない。そんな不安定な存在により不安定なモノを受け渡す行為、めっちゃ怖くないですか?うまく育児できている人間、天才じゃないですか?

死なせずに、なおかつ虐待をせずまっとうな人格を形成させなければいけないという労力、あとお金、なんかその他諸々…子供ってコスパ最悪じゃないですか…?

 

「子供=可愛い」という方程式が嫌い

最初に言う。子供はかわいくない。どっからどう見ても可愛くない。

可愛いと思えたのは「人間に近い子供」だけ。自分でフォークを上手に使い、悟りを開いたような表情で食事をしていた赤子はかわいいと思った。でもそれは赤子だからかわいいのではなく、人間らしいふるまいをしていたから「すごいな」という感心からくるものであったことは間違いない。

子供を見れば「可愛い~」って、お前の目は節穴なのかよ。それぞれ形が違うだろ。見目がいいっていう意味じゃなくて、それは概念に対して「可愛い~」って言ってるの?哲学の話をしているの?そんなにお前頭良かったの?そうなの?

子供に歌を歌わせとけばいいみたいな風潮も、縄跳びを飛ばせる風潮も、すべては子供に健気さを見出しているからに他ならないわけで、それを見出していない私からしたら大人がやればいいとしか思えない。というかそんなもののために人員を割くな。もっと有効的に利用して。

歌も歌うな。縄跳びも飛ぶな。

それが嫌なら耳と目を閉じ、 口をつぐんで孤独に暮らせ。

それも嫌なら・・・

 

子供嫌いは非国民という雰囲気が大嫌い

正直これが一番大きい。みんな嫌いなものはあるじゃないですか。人間嫌いの人だっているし、人が好意的な印象を持っているものを見ることすらできないくらい嫌いだと思っている人間は少なくない。なのに、「子供嫌いなんです」って言ったときの!!!!!あの!!!!!目!!!!!!!

別に「犬虐待した挙句生で食ってるんです」なんて言っていない。子供を殺したいとさえ言っていない。嫌いと言っているだけで「感情のない人間」のレッテルを貼ってくる人間。いるんです。お前のことだよ。見てるんだろ?

ごめんな。どれだけ子供が嫌いでも人権はあるんだ。そもそもそうやって子供嫌いに執拗に子供を押し付けるからこっちはどんどん嫌いになるしひねくれるんだよ。それで本当に社会のバグみたいになっちゃったのがここにいるんだよ。やめてくれよ。

頼むから…

 

あれ…

 

もしかして…

 

…………口をつぐむのは…………俺自身だったか…………………

 

 

終わりです。

幸せの形がわからないまま大人になってしまった

https://twitter.com/_ik4s/status/902432221620879360

 

子供の頃、「自分にとっての幸せ」が可視化されていないと不安でたまらなかった。

あまり治安のよい小学校ではなかったから常にだれかは無視されていて、皆そちら側に回らないように必死だった。でも「次、私だ」とはっきりと自覚した瞬間があって、現状から脱却する術をない頭で考えた。それはもう全力で。

その結果生まれたのが「友情を確認し、残しておくこと」だった。

中庭に呼び出したような気がする。当時の友人(だと思っていた人)に心臓が冷たくなるような感覚をこらえて手渡したんだ。返ってくる手紙の中には「友達に決まってるじゃん★」といったようなことが書いてあった気がする。「友達ですか?」の質問に「はい・いいえ」で答えてもらって、もしかしたら「・」に〇がついていたような気もする。とにかく心臓が痛くて仕方がなかった。ホッとしたような心地もなかった。

でも、「これで大丈夫だ」と思った。

 

その後、友人たちから無視されるようになった。先生は助けてくれなかった。

 

**********************

 

振り返ってみれば手紙に書いた友好の証明は私にとって幸せ以外の何物でもなくて、その名残が「人からもらった言葉をスクショする」という形で続いている。

結局消えていない他人からの承認に対する執念と、物覚えの悪さ。

どれだけ嬉しかったことでもその日のうちにすっかり忘れてしまって、私自身は毎回初めてのような喜びがあっても相手はたまったものじゃないと思う。褒めてもらった記憶だけはぼんやり残っているから、相手がどんどん疲弊していく様子を見て「嫌われた!」と感じてしまう。面倒すぎるだろ。どうしたらいいんだ。

 

不確かな人間の感情と記憶力の悪さは好意的にマッチングしない。

だから人は結婚を「幸せの形」として紙に残し、社会に刻んでいくんだと思う。

ハッピーな脳内から絞り出した汁をインクにして書かれた婚姻届。

でも、それはあくまでも結婚をゴールとしてみる場合であって、二人の間に異性としての感情がなくなっても、子供のためだと不満を抑えて共同生活を続けようとも、「結婚は幸せ」と言えるかといえば疑問。

そもそもうちが片親(両親の仲は良好)だったから結婚に対して然程思入れもなく、「こんな結婚生活がした~い!」と思えるような存在もなかったから、結婚をより現実的に考えてしまうのかもしれない。

 

結婚以外の幸せって可視化されるのか?と一人でうんうん悩んでいるうちに人生に躓き、やっと起き上がり後ろを見てみれば、21年同じようなことを考えていたのかと唖然としてしまった。

ずっと人間関係に疑問をもって生きてきている。

幼稚園の頃は子供が嫌いで仕方なかったし、小学生の頃は見えない関係の糸を手繰り寄せるのに必死で、中学生からは他人を一気に見下し厭世的な小説を読み漁った。高校時代が一番健全だったように思う。あっ。この頃も感情が見えないのが怖くてアンケートとって無理やり生徒と生徒会の関係性に糸を作り出していたことを思い出したぞ。殺してくれ。

 

友好届は子供のころの私の思い出を供養するために作りました。思い出が思い出なだけに斜に構えたような見方をしてしまうけど、意外とポジティブに見ている人が多くて驚いている。そうか…友人関係の可視化も幸せの形なのか…。

そうか?

 

でも、幸せに形なんかなくても「あ、今幸せだ」と口に出すことで、シャボン玉のような儚さを含んだ幸福を感じることはできるんじゃないだろうか。

結婚していなくても幸せな人はいるし、友人が少なくても幸せな人はいる。それは確実に存在していて、その人たちを崇拝するわけではないけど、そういうルートもあることだけは頭に入れておきたい。

ちなみに私が突っ走っているのはメンヘラルートですが、障害抱えても幸せな時があるので大丈夫です。死にかけるくらいで特に支障は…。

 

人生や恋愛、精神のことを特に何かを調べることなく考えてしまう。酔っぱらうとそれが顕著に出てしまうため私と話すのはかなりつまらないと思いますが、知らねえよ。コミュニケーション取っていこうぜ。それが今できるあなたと私の関係の糸。

 

 ちなみにこういう話をしたのは今幸せだからです。ヒャッホー!

 

死 どうでもいい

「死 どうでもいい」で検索をした。

そこには自分の人生を破滅へ向かわせている人と、他人の死に執着する人を小ばかにしている人が存在している。

昔から人が死ぬことに対して何も思わなかったから、その二分で人間を分けるなら後者に近い。でも小馬鹿にはしたくないし、なんなら人の死に涙を流す姿は美しいと思う。そこまで感情を揺さぶることなんだなとハッとさせられる。

 

小さいころから葬式では泣かない子供だった。祖父が死ぬ直前、家族全員が祖父に泣きながら呼び掛けている中、私は気にも留めずゲームをしていた。ハムスターが死んだとき、土に埋めてすぐ「次は何を飼う?」と家族に聞いたのを覚えている。同級生の葬式ではしんみりした空気に耐え切れず笑いを咳で誤魔化していた。父方の祖母の葬式ではそもそも面識がないから遠い話のように思えて、全員が唱えるお経を聞きながら耳がボワボワするのを感じていた。

全部が異世界の話みたいな気がする。死がイレギュラーなことだとはわかっていても、死んでしまったらそれはただの物でしかなくて、天国とか地獄とかそういう話は死者が見る夢でしかない。

死後のことは私たちが押し付けていいものではないはずなのに「さみしくないように」とか考えてしまうことが、よくわからない。でもそういう概念がこの世には蔓延っていて、だから人は死者とお別れをするために儀式を設けているっていうのは理解している。そして何度も言うけど、それを小馬鹿にはしたくない。素晴らしいことだと思う。

 

だから、そこに入れないのがとても悲しい。悲しいし、泣いてみたり考えたりしても私にはどうしても猿真似になってしまう。死ぬ直前までは確実に生がある。どうしたらいいかわからないなりに何か手段が取れるなら、おそらく取ると思う。泣くと思うし神様に祈りをささげることだってする。存命の可能性が5割あればそういった対応する。

でも、もう死ぬだろうなってわかれば、何もしないかもしれない。それはもう物に近い。物にはなにをしても利益が生まれない。意識があるならせめて手を握ってやるくらいしかできないんじゃないか。

ゲームや映画で、犬や幼い女の子が死ぬ間際のシーンはボロボロ泣いてしまう。自分よりはるかに弱いものが抗えない何かによって無残に死んでいくのはどうしたって悲しい。それは死に対して泣いているのかはよくわからない。でも死に対して泣いてたらホラゲとか嗚咽漏らして泣かないといけない。

父と子の関係性の解消。相棒の関係性の解消。

そういったものに涙を流していると考えるとしっくりくる。

 

以前亡くなった人に対していろんな人が思いをつづっていた。それぞれの弔い方があるんだと思った。繊細な問題であることも十分に理解しているし、特筆すべきこともなかったから何も言わなかったけど、そこではっきりと「何か…見え方が違う」と感じたのを覚えている。

 

そして先ほど祖母の家で飼っている猫が亡くなった。叔母がひどく悲しんでいるようだった。

何を言ったらいいかわからなかった。何も思わなかったから。

小学生のころから一緒にいた猫なのになんとも思わなかった。二度と会えないということは私にとってさほど重要な問題ではないから、そうすると死が本当にどうでもよくなってしまう。

 

周囲は悲しいのにその感情に置いて行かれているのが怖い。

ついていくことができないことが悲しい。

この悲しさで泣くことができるんじゃないかってくらい、本当に悲しい。

 

ひょっとすると親が亡くなったら泣くのかもしれない。それはまだわからないけど、でも泣かなかったらその恐怖でうっかり泣いてしまう気がする。

感情に起伏がないのではなくて、死に対する感情だけが抜け落ちてしまっている。

卒業式とかガンガン泣くタイプだったし…。

 

騙し騙し生きてきたけど今回の件で確実になった気がしたので文字に起こしてみた。

死への悲しみに同調できないことが今後どう作用するかはわからないけど、とにかく今は叔母のメールを見て怖くなっています。返し方わかんねえ。

 

以上です。

意外とみんなそういう気持ちを持っていたりしてね…あんまりこういう話ってしないし。だとしたらなんか恥ずかしいな。

京都→岐阜

楽しみというのは毎度のことあっという間に過ぎ去ってしまい、今残っているのは足の鈍痛だけ。

美術館前で力尽きてしまったので、暇つぶしで今これを書いている。

色々暇つぶし方を考えたが体力が残ってないし、京都に来てまでヒトカラ?となるし、そんなことでお金を使いたくないし。

そもそもこんな早くから外に出るべきじゃなかった。でもギリギリに着くのも怖い気がする。

 

だからって5時間前はおかしいだろ。

確かに。ぐうの音も出ない。

 

京都に行く時、いつも「京都大学に行きたい!」しか言わなかったことが災いし、私の京都観光スポットは京都大学しかなかった。

なので今回はかなり京都した。

 

経路としては

平安神宮→人力車で南禅寺→糺ノ森→下鴨神社

記憶が抜けてなければ確かこんな感じ。

鴨川デルタも行った。ちょうど大学生が映画を撮っていたようで、エモさが増していた。

神社っていうのはなんであんなに涼しいんですかね?涼を求めた職人の技?それとも霊とか神とかそういう…神通力?少なくとも何かただならない力が作用してそう。神社に住みたい。

途中でお蕎麦を食べた。お腹空いてたはずなのに3口目くらいで「もういいな…」となってしまったのが不服だった。京都の暑さにやられたとしか思えないが、だからって…。

あと、人力車すごかった。本当に暑くて立ってるだけでHPが抉られるような日だったけど、人力車のお兄さん超笑顔で車押しながら話してるの。やばい。労働っていろんなものがあるけどなんか…すごい労働らしいというか…乗ってるこっちが「話さなくていいよ…」って言いたくなるくらい話す。お兄さんあの後大丈夫だったかな。

 

通り過ぎる人が関西弁と少し違うツンとした方言を話していると「内の人だ…」とビビるのですが、基本こっちが海外に迷い込んだかと思うほどのよそ者の街ですね、京都は。

次行くのはおそらく京都大学の学祭になります。ずーーーーーーーっと行きたかったのね…。また夢が叶うね…。

自分の大学の学祭が11月の頭にあっていつもバタバタして行くことができなかったので、とても嬉しい。あ、もちろん自分のところも行く予定です。後輩で仲良くしてる子がいるのと、先輩たちも集まるので…いや私ドロップアウトしてるんだけどね。

 

明日は通院です。特に話すことがないのでADHDのことについて聞いてこようと思います。

 

岐阜→京都

バスの中は暇なので、よく外を眺める。

 

景観が好きだ。街並みが好きだ。

自然物より、立て込んだ住宅街が好きだ。

手でペシャンと潰しがいのありそうな屋根の並びが好きだ。

鉄塔が好きだ。整列したビニールハウスが好きだ。

区画で整えられた、青々しい田んぼが好きだ。

山の上にポツポツと生える人工物が好きだ。

橋が好きだ。工場が好きだ。

人のためだけに作られた階段が好きだ。

屋上に続く梯子。何が入ってるかわからない筒状の建物に巻きついた螺旋階段。

とにかく好きだ。

汚れた標識が好きだ。下手くそな道案内をしてくる看板も好きだ。

背伸びしたSAが好きだ。そんなかしこまらなくてもいいのに、田舎でオシャレしてる中学生みたい。

ビュウッと横を通るトラック。シルクのようにうねる高速道路を慌てて走る車たち。Y軸に折り重ねられた道路の様相は私たちの創造する近未来を彷彿とさせる。

 

好きだ。人工物はこんなにも美しい。

 

ところで、自然物の中だと雲が好きだ。

綿菓子を無理やり引きちぎったような切れ目が好きだ。

時折見せる地獄のような紅が好きだ。その横で優しく漂う橙も好きだ。

白と青のコントラストはキレイだ。

 

::::::::::::::::::

 

バスに乗って1時間が経った。

つくのは17時を過ぎるから、もう少し、まだまだかかる。ありがたいことにWi-Fiが使えるのでアニメを見たりしたのだが、感覚過敏でイヤホンを引きちぎりそうになってやめた。

最近耳から首回りの感覚がおかしい。空気が触れているだけで切り落としたくなる。今も襟元を気にしながら、これを書いている。

「書く」という言葉を人が目にする時、いつだってイメージはアナログだ。机に向かい、紙とペンを用いて文章を「書く」。

だとしたらこれは「打つ」になってしまう。でもスマートフォンで「書く」と打つと、出てくる絵文字は「✍️」になる。変ですね。

タイプライターは「打つ」で正しいはずなのに、スマートフォンになると「書く」に寄ってしまう気がするのはどうしてだろう。

 

:::::::::::::::::::::::

 

先ほどまでカフェにいた。

タバコを吸いながらスマホをいじっていると、隣に男性2人が着席。年齢は六十そこそこ。「昔はここでよくサボってたよ」と片方が快活に話すが、もう片方は「うん…」と素っ気ない。ただその後も「あの映画はダメだ!今度はワンダーウーマン行くか!」「うん…」「ところでなあ!」「うん…」と穏やかに会話が展開されていた。

 

「いいなそれ」と思った。

 

:::::::::::::::::::::::

ところで1人で京都に来るのは3回目。

京都は落ち着く。鴨川も好き。

よそ者受け入れ態勢が整っている感が落ち着くのかもしれない。名古屋の方が緊張するもの。

1人でうろついても大丈夫。みんなよそ者だから、変な目で見られたりしない。

森見ワールドというにはやや俗世的ではあるが、そもそも私が俗物的な時点でマッチしなきゃおかしい。

黒髪乙女はいないし下鴨神社猫ラーメンは無い。薔薇色のキャンパスライフは鴨川に沈められ、私は何故かなけなしの金で京都に誘われている…。

それでいい、Let's 俗世。

サナトリウムKYOTOでさっぱりして、また沼のような岐阜に帰ろう。

あそこは空気が悪いんだ。

 

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

 

1ヶ月半前に見かけた工事がまだ終了していない。

 

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::