あんまり死なない方がいいですよ。

この一年で体験したことを遺しておく。

アスペル・カノジョを読んで

バイト前、休日ダイヤだったこともあって早めに電車に乗っていた。

ツイッターを眺めていたら漫画が流れてきた。興味本位で読んでみた。

たまたま暇だったから。

 

seiga.nicovideo.jp

 

最初の感想は「見なきゃよかった」。これに尽きる。

もう読み進めていくうちに止まらなくなってしまって、何とか降りた駅で立ちすくんで読んでいた。体のいたるところに何かがぶっ刺さるような衝撃が読み進めるごとに襲ってくる。身体の輪郭は完全に消失してしまっているのにどこからか震える自分を見つめているような、奇妙な感覚だった。脳みそだけがかろうじて機能しているような、言語化が難しい不快感。

なんとかトイレまで行って祝日ムードの雑踏から逃れることができた。自分の存在を確認しないとまずい状態だったので人に電話を頼み、声が自分に投げかけられている実感が体に魂を収まらせた。安心と、またスルリと抜けていってしまう魂の不安定さに思わず泣いてしまった。

フィクションだろうがリアルだろうが、琴線に触れるものは存在する。そこに大小の差はなくて、感じたものはすべて事実で、その不快感と衝撃は誰しもどこかで経験することだ。

その境目や価値基準が揺らぐ程度には、アの漫画に打ちのめされた。

だからここから書くことは見ない方がいい人も絶対いる。傷の掘り起こしをするほど人生に暇がある人なんてそういない。

 

別にアの漫画を解き明かそうとか、先日の不穏なTLをほじくり返そうとか、表現規制の話をしたいわけじゃない。絵や文字に受けた衝撃を言語化して、どうしてこんなに面食らってしまったのか自分と向き合うための場所。入院してた時も延々と文面に起こした己の感情を向き合っていた。視覚の情報は強い。整理することも大事。後はタイミングを見計らうだけ。それが今。

 

第3話

昨日は凄く嬉しくて、久しぶりに楽しい気持ちのままドキドキしてて

でも、寝る時に中学とか高校の記憶がフラッシュバックして不安になったんです

起きたらまた、辛いことばっかり思い出すのかなって

斉藤さんがリスカの処置をした後の言葉。

情緒不安定なもんだから、昼間ハチャメチャに楽しくても夜にはさめざめと泣いている、なんてことは結構ある。高揚はいつまでも続くことはない。特に夜、誰とも話すことがないと自分と対話するしかないんだよね。そうすると感情は一気に0を飛び越えてマイナスまで落ちてしまう。真っ逆さま。明日の余計な心配までして悲しくなって、気づいたら腕がボロボロだった、という経験のある人は多いと思う。

 

後犬を蹴るシーン、さすがに動物相手にはやらないけど(動物は弱いから)、考えれば調子の悪い時は学生が横を通るたびに舌打ちをしてしまう。でも人間は強いからそれ以上できない。別に向こうは攻撃しているわけではないのも何とか理解できている。今日なんて服の模様に睨みつけられている感覚がすごかった。無意識に攻撃されているとどうしていいかわからない。だから感情の抑制が効かない。だから斉藤さんの気持ちが少しわかってしまう。漫画の感想が口河漏れてしまっているシーンがだいぶ近い。

 

 

第5話

生まれた時から生きるのが難しい運命だった

みたいな感じですか? 

 

原因を探すだけ無駄、最初から決まってた事

「ウミガメ」の話をするシーン。

小学校の頃からぼんやり生まれた「死にたさ」というのが慢性的に続いてるのがまあまあ変、ということを徐々に理解し始めている。そりゃ誰でも死にたくなることはあって、どこかに逃げたいとか、辞めたいとか、具体的な意味合いもあれば本当に世界から消えたいと思うくらいの「死にたさ」が存在している。人生だもん。健常者でさえ毎日ハッピーに生きているわけないでしょ。全員辛い瞬間は確実に存在してるでしょ。

それが「線」か「点」かで生きづらさが決まるのも事実。語尾に「~だから死にたい」と呼吸するように、でもしっかりと実体を持って呟くことができてしまうのは、まあ、あんまりよくない。そこに原因があるのか、はたまたないのか。このやり取りで少し考えさせられた。

最初から決まってたことなのだとしたら辛いな。そういう属性ってことでしょ。 

 

あとここ

普段なら死ぬ程の事じゃないとか残された人に迷惑かかるなって分かってるんですけど

景色がフワッと窓の内側から外を見るみたいに遠くなって

お風呂で立ちくらみした時みたいに

考えてた事とか聞いた言葉とか全部ぼやけるんです

あれ、なんか全部どうでもいいやって

すっごいねえ~

まんまこれでしょ、辛うじて意識ある時って葬式代とか調べて「このお金がたまるまでは死ねない…」とかやるし、もっと余裕があればピンチから逃れる方法や、代替案、むしろ諦める、みたいな人生の解法がいくらでも浮かぶんですけど…

衝動に飲み込まれると津波が来たみたいに目の前の理性やら社会やら繋がりっていうもんが0になるんですよね。

「死んじゃダメ」「生きててほしい」

嬉しい言葉には違いないけど、津波に飲み込まれている人間にその声が届くかというと、それは難しいよね。本当に大切な人には日ごろからの声かけが大事だと思う。

 「本当にダメになったらお互い連絡だけはしよう」と約束している人がいる。お互いにこの言葉に嘘はないし、先日の自殺企図の時は連絡した(はず)。でも耐え難い衝動が来た時に守れるかと言われたら自信がない。それだけ衝動は強い。強すぎる。

 

だからこそ

意識が飛んだ時たった一つでもコントロール出来る”動作”があれば

 手は打てるかも知れない

 体に覚えこませるということ、津波の中で吹ける笛を持つということがどれだけ大切かわかる。誰かがウキワを投げ入れると言ってくれるなら挙げられる手があるかもしれない。「考えさせずに」って言えるその精神どこから来るんだ横井。すげーなお前は。

死の淵から救い出せるのは絶対に裏切らない存在。それ以外何があるんだろう。

これは人間以外でもですよ。お金とか宗教とか、そういうのも含めてね。

 

これ、待ち受けにしますね

人から言われた好意がすべて抜け落ちてしまうので、すごいわかる。

写真に撮って残しておかないと忘れる。救済措置だとしても忘れる。

なので、ラインで嬉しかった言葉はスクショですべて残してあります。 

 

第6話

受け入れてくれる他者に対して己の不潔さが気になるっていうのは結構ある気がする。内面においても外見においても。この人のそばにいるだけの価値が自分にあるのか?ということは毎日考えさせられる。

受け入れてくれるキャパシティを測りかねているのもあるし、何よりまず自分のふがいない部分を受け入れてくれる状態が発生することへの恐怖が強い。どこまでのめりこんでいいのかわからない。家族でさえお金借りるのは怖いじゃないですか。あれと同じです。私は他人の人生に介入するのが怖いので、なんなら彼氏を朝起こすこともできない。理由は怖いから。責任持てないから。

 

横井さんに謝らせた

で、自分のふがいない部分っていうのは自分が一番理解しているわけで。ずっと自分のことを考えながら生きていると悪いところなんていくらでも挙げられる。私にやさしいあなたより私は私のこと一番わかっているんだから。知ったような顔しないで!と思ってしまう。

そんな部分を自分で尻ぬぐいすることができず、助けてくれる人に余分な負荷をかけてしまったことに対する申し訳なさというのは言語化するのが難しい。それくらいには、辛い。相手が些細なことだと思っていたとしても、それを理解することすらできない。

時間が解決するのを待つしかない。申し訳なさは誰かに何かを言われることで消えるものじゃないから。

 

女は男とは違う独特の勘の鋭さがあるというが

障害がそれをさらに何倍も鋭敏にする場合があるらしい

 ネット恋愛の関係性だけいち早く察知する能力がある。

あの人はこの人が好きそうだな。あそこは付き合ってそうだな。とか。

大体当たるので楽しいです。でも、現実はさっぱり…。

 

第7話

 テレビが見てられない、というのは誰にでもある感情だと思うから特に何も言わない。

酷い時はオーケストラを永遠に見ていた。最近はもっぱらNHKの料理番組。平和。

 

二人が話をしている時に突然斉藤さんが放つこの言葉。

でも横井さんだって私の顔嫌いでしょ? 

 はい、身に覚えがありますね。次行きましょう。誰かにとっては些細な行動や言葉が心にチクッと刺さってそれがどんどん溜まっていく。それが1回だけだったとしても当人が心の中で反芻を繰り返すことになるので、疑惑が確信に変わっていってしまう。斉藤さんが断言するような口ぶりなのも、きっと目が合わないことが繰り返されたことによるものなのかな。

 

魚は?鳥は?虫は?看板は?鏡は?漫画は? 

 はいきた!!!!!

「自分」のことが嫌いなのではなくて、「目を持つすべての物」が苦手であるという確信が持てない限り「この人は私の顔が大嫌いで見たくもないんだろうな」と思う。

とにかく聞く。思いつく限りのあらゆる例を挙げて、すべてに否定が返ってくるかを「確認」しないと気が済まない。もし少しでも「例外」が見つかってしまえば私は嫌われているのに等しいし、一緒にいてはいけない存在だと感じてしまう。1の例外は100の自己否定になってしまう感覚。身に覚えがありすぎる。

 

 

この後フラッシュバックによりパニックを起こしてしまう斉藤さん。

この時の横井の対応は素晴らしいと思う。電話をかけることができた斉藤さんも偉い。

 

わかんない 怖い

パニックになると目の前が真っ白なのか真っ暗なのかわからなくなってしまって、とにかく脳みそが混乱する。何を言われてもわからない。

先日学校の屋上から飛び降りようとしたときに「死にたい、でも怖い」という気持ちからすがる思いで電話をした。どれだけ叫んでも泣いてもレスポンスが返ってこずカッとなって携帯を地面に投げ落としてしまった。自殺の淵に立たされた人間の衝動というのは前後のことを考える余裕がない。だからこそ、丁寧に言葉を切らさずに斉藤さんと連絡を取り続けた横井の対応は拍手ものだった。

まあ、だからといってこの対応がすべてのパニックに通用するかと言ったらそれは断じて否。本人でさえ把握できないのだからそばにいる人の苦労は計り知れないだろうな。申し訳ありません…。

 

****************

第8話

心配性な人間はつい、最悪の事態を想像してしまうが

彼女はそこからパニック症状を発してしまうので

言葉は慎重に選ばなければならない

先にシャワーを勧められて「臭かったですか?」と斉藤さんが心配するシーン。

相手にとっては何気ない言葉、仕草だとしても、その人が大切であればあるほど考え込んでしまう。他にも職場の人や学校の人間関係といった「関わらざるを得ない人達」の顔色はうかがわずにはいられない。少しでも不穏な動きをされようものならその日は「何をしでかしてしまったのだろう…」と心が締め付けられる。

例を挙げるとするなら、気になっている人からいつも言われている「おはよう」を言われなかっただけで

 

「私何かした?どうしてこんなに嫌われた?そういえば昨日のあの言葉なれなれしかったかな…もしかしたら他に興味が移ってしまったのかも、私はもういらないのかな、でもそれはとても悲しい、どうしたらいいのかわからない、どうしたらいい?なんで?」

 

となる。(めんどくせー!)

ただ「おはよう」を言われなかっただけというのもわかっている。しかしどうしても思考を止めることができず、脳内でショックをリフレインさせていくうちに負の感情が増幅、結果パニックに繋がってしまう。

現代のSNS文化も過剰な心配性に拍車をかける起爆剤にしかならない。表情や声色が分からない上に表現に乏しい文面だけ送られてきたときの絶望感たるや。全員が文章のプロフェッショナルではないし、コンディションが万全ではないときがあるのも理解はしているけど、なかなかね…。

 

第9話

普通の人に生まれたかった

この漫画で何かがぶっ刺さる感覚を得た人間はこの言葉に痛く共感したと思う。

生きづらさに名前がついていようといなかろうと、抱えている人間というのは様々な場面で躓かなくていい石につまづき、派手に転ぶ。避けられない痛みをこらえて何とか起き上がるも、周囲は感じることのない痛みであることを肌で感じながら、その絶望を伝える術もなく、日に日に傷が増えていく体を奮い立たせて生きていく。

「普通」に生きていくことの難しさに何度も挫折しながら、次第に「普通」に憧れるようになる。すぐそばにあるのに、嫌ってくらい目に入るのに、絶対に、絶対に手に入らないもの。苦しさの根源。

 

対して横井はこう返す。

痛みを鋭敏に感じられるのは才能だよ

だから俺達は天才なの

変じゃない

周囲の人間が知覚することのない感覚を私たちは手に入れている。それが悪い作用に働くこともあれば、良い方向に作用することもある。

例えばこのブログがそうだ。「普通」だったら、きっとアスペル・カノジョにこれほどまでに共感していなかったと思うし、必死で言語化して伝えようという気持ちさえ起らなかった。そして、多くの人に読んでもらったことで新たなつながりも生まれた。良い作用が働いたと言っていい。

「普通」の反対は「変」ではなくもう一つの「普通」が存在している。そう思うのはアスペル・カノジョやこのブログに共感する人が多く見受けられたからである。"私達"は孤独ではない。どこかの誰かは貴方の「普通」に共感してくれる。認めてくれる。そのためには発信することが大切だ。拙くても必死に声を上げることで、横井の漫画を見つけた斉藤さんのような人が現れるかもしれない。

 

第10話

斉藤さんが横井のブックマークを見たシーン

横井さんの

ブックマーク………

これほんtttttっとうに嬉しい

私は今まで自分から症状を書いて渡して、本も渡して(読んでもらえなかった)ってやってたから、自発的に調べて対処しようとしてくれる人は菩薩に見える。

直近でわざわざ症状を調べてくれる人に会いましたが、あれは本当にうれしい。

障害や病気を抱えている人と付き合う人はそれくらい背負う覚悟がないと寄り添うのは難しいのかな…とも思う。こちらも最大限の努力はしますが、それでどうにかなってたら苦しんでないんだよな…。

とても好きなシーンです。

 

第11話

斉藤さんが横井を殴ってしまうシーン。

私は病気を発症してから大切な人に対して暴力を振るうようになってしまった。

暴力を振るうということを大多数の人はしないということは理解している。でも私の世界では暴力を振るうことが普通になってしまっていて、自分の理性で押さえつけることは到底できない。私が女性でなかったら骨折させていると思う。

どうしたら感情の制御ができるのかがわからない。必死で自分の頭を殴っても叫んでみても形容しがたい怒りや悲しみは増幅し、気づけば理性がシュルシュルとどこかにいってしまう。それが最高点に達すると自傷が他害にシフトし、全力で相手を蹴り飛ばし、平手打ちをしている。

カッとなる、という感覚は非常に的確だ。何度も何度も殴った後に相手がうずくまっているところで我に返る。

 

取り返しのつかないことをしてしまった、大好きな人なのに、もう殴らないって決めたのに、痛いことをしてしまった、ごめんなさい、ごめんなさい、違う、違う、こんなことがしたかったんじゃ違う違う違うごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 

ようやく帰ってきた理性と耐え難い絶望、果てしない自責がない交ぜになり、気づけば相手よりも焦燥し、呼吸をすることさえ困難になってしまう。殴った相手に介抱してもらうことが何度もあった。とにかく私は相手に抱き着いて殴ったところをさすり、「違う、違う」ということしかできなかった。完全にDVの典型だ。

だからこそ今回の殴るシーンはひどく共感した。共感しすぎて斉藤さんの気持ちと同化してしまい、あまりの辛さに街中で泣いてしまった。読み返しても悲しくなってしまう。お付き合いしてた皆さん、本当に申し訳ありませんでした。

こんなに自分のことを描いている漫画、他にあるんだろうか…。

 

第12話

12話も全体的にきついシーンが多かったけど、漫画の中で完結して表現されているところが多かったのでそこらへんは省こうと思います(肉食獣と赤子のシーンとか)

 

言葉だけできょうのショックを和らげるような裏技は存在しない

慎重に斉藤さんの様子を伺って

突飛な行動に警戒しながら

時間をかけて癒していくしかない

横井と斉藤さんが話し合ったあとのシーン。

なんでこんなこと言えるんだろう、びっくりする。

今までの人はその場ですべて完結させようとしたし、私もどれだけ辛くても完結させなければいけないと思っていた。しかし負の感情をその場で完結させられるわけがなく、次の日の体調が悪ければ必然的に思い出してしまうこともある。そのたびにどんどん対応が雑になっていく様子が見て取れて、それがとても苦しかった。

「時間を書けて癒していくしかない」という、長期戦であることを覚悟のうえで斉藤さんを受け入れられる横井の懐のでかさがすごい。いやフィクションなのはわかっているんだけどそれでもすごい。

凝り固まった苦しみというのは脆く、耐え難い何かによって修復不可能な状態までいってしまうことも少なくない。でも、その傷は時間をかけていくことである程度の状態まで戻すことができる。これは絶対に。ただその時間が1日なのか、5年なのかは誰にもわからない。当人にさえも見当がつかない。それに寄り添っていくのはプロでも難しいことだと思う。横井…横井すごいな…。

 

第15話

いつか治るものじゃなくて

生まれたら一生そのままの体でいなきゃいけないんです

斉藤さんの子供を産むことに対しての話。

双極性"障害"も子供に遺伝する可能性があると知り、私も絶対に出産はしないと決めた。恋人を作らないと決めている時点で出産のリスクはないので良いのだけど、ともあれ人生のメインクエストは大体諦めなければならなくなった。

常に死の淵に立ち、少し揺らげば死に取り込まれてしまう感覚を知ってしまうと、それを子供にまで味合わせたくないという気持ちが働くのは必然だと思う。呼吸をすることさえ苦しくて、食事をとることが耐え難いことのように感じ、寝る前に自然と涙があふれてくるような、黒い靄がずっと視界を覆うような、あの感覚は知るべきじゃない。

そもそも自分の遺伝子を残したくない。というかうっかり殺しそう。本当に。

横井は出産の話において非常に健常的な意見を持っているが、斉藤さんの意見も汲みながら「保留」という形にしたのは最適解であると思う。

 

横井さんにお礼も出来ない

自分はいて迷惑だという思いが付きまとう中でせっかくできる「お礼」が、己の価値観によって封じられてしまうことによる情けなさと申し訳なさが表れていると思う。

私もセックスを相手の時間を消費したお礼として利用する節があるので、気持ちはわかる。会ってご飯を食べてお金を払ってもらって…と考えるとそれまでの時間の価値はマイナスになってしまっているわけだから、素直に評価されるセックスであれば相手も喜ぶし私も安心する。それだけのツール。

 

第17話

大事な人守る時にはある程度の人数もいるぞ

相馬さんが横井と話すシーン。

アスペル・カノジョの場合は斉藤さんが大変な時に横井の仕事を変わってくれる人であったり、斉藤さんの様子を見てくれる人であったり、というのが一番身近に必要とされる人員であると思う。

私達の場合においては家族であったり友人であったり、恋人や職場の人といった人たちも含め、まずは医療とリンクすることが大事になってくる。

医者と合わないというのは治療において不利益を被る。実際に私は医者と合わず何回か病院を変えている。斉藤さんは人の好みが激しく分かれるので医者選びが億劫になり病院に行かなくなったタイプだろうな。でも、適切な治療をしない限り社会に溶け込む準備すら困難になってしまう。人間関係を築くうえでも体調を整えることは最優先事項だ。今回のこの話は横井の対人恐怖症を際立たせるシーンだが、私は対人恐怖症の気が全くないのでここではそちらについての言及はしない。

 

☆ここまで書いて力尽きました 後日加速した時に加筆します。また書評として別記事でまとめると思います。

 

最後に

自分みたいなのを知ってくれる人がいるんだなって安心する

どの本も何を読んでもいつも無視されてて

治せない私が悪いって言われてるみたいだった

アスペル・カノジョを読んで斉藤さんのこのセリフが沁みた。

私の場合もこんなに自分のことを描いている漫画も、場所も、どこにもない。

横井のような人がほしいとか、白馬にまたがったカウンセラーが現れてほしいとか、そういうあさましい感情を持っているわけではなくて…。これは男女の恋愛を描いたものではないし、「横井みたいな理解者がほしい!」「斉藤さんみたいな人間を救ってあげたい!」という感想をお持ちになる方がいらっしゃるなら全員殴ります。そういう話じゃねえよこれは。

生きづらさを誰かに認めてもらい、受け入れ、社会とリンクしていく。そうして徐々に「助けてくれる人」を増やしていくことが生きづらさを抱える人間がたどりつく人生の解法だと思う。

様々な人が様々な視点に立って心をかき乱されているのを見かけた。それだけ迫力があり、渦中の人間に何かを思わせる作品だ。

このブログを読んで「気になる」と思ったら是非読んでみてほしいし、おそらく「気になる」と思う状況で読むには多少ダメージが多い気もする。

私は最初のダメージが大きかったものの今では何回も読み返している。読み返しては一つ一つの言葉に心をほぐしてもらっている。

「そういう世界が見えている人」に届きますように。