あんまり死なない方がいいですよ。

この一年で体験したことを遺しておく。

幸せの形がわからないまま大人になってしまった

 

子供の頃、「自分にとっての幸せ」が可視化されていないと不安でたまらなかった。

あまり治安のよい小学校ではなかったから常にだれかは無視されていて、皆そちら側に回らないように必死だった。でも「次、私だ」とはっきりと自覚した瞬間があって、現状から脱却する術をない頭で考えた。それはもう全力で。

その結果生まれたのが「友情を確認し、残しておくこと」だった。

中庭に呼び出したような気がする。当時の友人(だと思っていた人)に心臓が冷たくなるような感覚をこらえて手渡したんだ。返ってくる手紙の中には「友達に決まってるじゃん★」といったようなことが書いてあった気がする。「友達ですか?」の質問に「はい・いいえ」で答えてもらって、もしかしたら「・」に〇がついていたような気もする。とにかく心臓が痛くて仕方がなかった。ホッとしたような心地もなかった。

でも、「これで大丈夫だ」と思った。

 

その後、友人たちから無視されるようになった。先生は助けてくれなかった。

 

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振り返ってみれば手紙に書いた友好の証明は私にとって幸せ以外の何物でもなくて、その名残が「人からもらった言葉をスクショする」という形で続いている。

結局消えていない他人からの承認に対する執念と、物覚えの悪さ。

どれだけ嬉しかったことでもその日のうちにすっかり忘れてしまって、私自身は毎回初めてのような喜びがあっても相手はたまったものじゃないと思う。褒めてもらった記憶だけはぼんやり残っているから、相手がどんどん疲弊していく様子を見て「嫌われた!」と感じてしまう。面倒すぎるだろ。どうしたらいいんだ。

 

不確かな人間の感情と記憶力の悪さは好意的にマッチングしない。

だから人は結婚を「幸せの形」として紙に残し、社会に刻んでいくんだと思う。

ハッピーな脳内から絞り出した汁をインクにして書かれた婚姻届。

でも、それはあくまでも結婚をゴールとしてみる場合であって、二人の間に異性としての感情がなくなっても、子供のためだと不満を抑えて共同生活を続けようとも、「結婚は幸せ」と言えるかといえば疑問。

そもそもうちが片親(両親の仲は良好)だったから結婚に対して然程思入れもなく、「こんな結婚生活がした~い!」と思えるような存在もなかったから、結婚をより現実的に考えてしまうのかもしれない。

 

結婚以外の幸せって可視化されるのか?と一人でうんうん悩んでいるうちに人生に躓き、やっと起き上がり後ろを見てみれば、21年同じようなことを考えていたのかと唖然としてしまった。

ずっと人間関係に疑問をもって生きてきている。

幼稚園の頃は子供が嫌いで仕方なかったし、小学生の頃は見えない関係の糸を手繰り寄せるのに必死で、中学生からは他人を一気に見下し厭世的な小説を読み漁った。高校時代が一番健全だったように思う。あっ。この頃も見えないのが怖くてアンケートとって無理やり生徒と生徒会の関係性に糸を作り出していたことを思い出したぞ。殺してくれ。

 

友好届は子供のころの私の思い出を供養するために作りました。思い出が思い出なだけに斜に構えたような見方をしてしまうけど、意外とポジティブに見ている人が多くて驚いている。そうか…友人関係の可視化も幸せの形なのか…。

そうか?

 

でも、幸せに形なんかなくても「あ、今幸せだ」と口に出すことで、シャボン玉のような儚さを含んだ幸福を感じることはできるんじゃないだろうか。

結婚していなくても幸せな人はいるし、友人が少なくても幸せな人はいる。それは確実に存在していて、その人たちを崇拝するわけではないけど、そういうルートもあることだけは頭に入れておきたい。

ちなみに私が突っ走っているのはメンヘラルートですが、障害抱えても幸せな時があるので大丈夫です。死にかけるくらいで特に支障は…。

 

人生や恋愛、精神のことを特に何かを調べることなく考えてしまう。酔っぱらうとそれが顕著に出てしまうため私と話すのはかなりつまらないと思いますが、知らねえよ。コミュニケーション取っていこうぜ。それが今できるあなたと私の関係の糸。

 

 ちなみにこういう話をしたのは今幸せだからです。ヒャッホー!