死 どうでもいい
「死 どうでもいい」で検索をした。
そこには自分の人生を破滅へ向かわせている人と、他人の死に執着する人を小ばかにしている人が存在している。
昔から人が死ぬことに対して何も思わなかったから、その二分で人間を分けるなら後者に近い。でも小馬鹿にはしたくないし、なんなら人の死に涙を流す姿は美しいと思う。そこまで感情を揺さぶることなんだなとハッとさせられる。
小さいころから葬式では泣かない子供だった。祖父が死ぬ直前、家族全員が祖父に泣きながら呼び掛けている中、私は気にも留めずゲームをしていた。ハムスターが死んだとき、土に埋めてすぐ「次は何を飼う?」と家族に聞いたのを覚えている。同級生の葬式ではしんみりした空気に耐え切れず笑いを咳で誤魔化していた。父方の祖母の葬式ではそもそも面識がないから遠い話のように思えて、全員が唱えるお経を聞きながら耳がボワボワするのを感じていた。
全部が異世界の話みたいな気がする。死がイレギュラーなことだとはわかっていても、死んでしまったらそれはただの物でしかなくて、天国とか地獄とかそういう話は死者が見る夢でしかない。
死後のことは私たちが押し付けていいものではないはずなのに「さみしくないように」とか考えてしまうことが、よくわからない。でもそういう概念がこの世には蔓延っていて、だから人は死者とお別れをするために儀式を設けているっていうのは理解している。そして何度も言うけど、それを小馬鹿にはしたくない。素晴らしいことだと思う。
だから、そこに入れないのがとても悲しい。悲しいし、泣いてみたり考えたりしても私にはどうしても猿真似になってしまう。死ぬ直前までは確実に生がある。どうしたらいいかわからないなりに何か手段が取れるなら、おそらく取ると思う。泣くと思うし神様に祈りをささげることだってする。存命の可能性が5割あればそういった対応する。
でも、もう死ぬだろうなってわかれば、何もしないかもしれない。それはもう物に近い。物にはなにをしても利益が生まれない。意識があるならせめて手を握ってやるくらいしかできないんじゃないか。
ゲームや映画で、犬や幼い女の子が死ぬ間際のシーンはボロボロ泣いてしまう。自分よりはるかに弱いものが抗えない何かによって無残に死んでいくのはどうしたって悲しい。それは死に対して泣いているのかはよくわからない。でも死に対して泣いてたらホラゲとか嗚咽漏らして泣かないといけない。
父と子の関係性の解消。相棒の関係性の解消。
そういったものに涙を流していると考えるとしっくりくる。
以前亡くなった人に対していろんな人が思いをつづっていた。それぞれの弔い方があるんだと思った。繊細な問題であることも十分に理解しているし、特筆すべきこともなかったから何も言わなかったけど、そこではっきりと「何か…見え方が違う」と感じたのを覚えている。
そして先ほど祖母の家で飼っている猫が亡くなった。叔母がひどく悲しんでいるようだった。
何を言ったらいいかわからなかった。何も思わなかったから。
小学生のころから一緒にいた猫なのになんとも思わなかった。二度と会えないということは私にとってさほど重要な問題ではないから、そうすると死が本当にどうでもよくなってしまう。
周囲は悲しいのにその感情に置いて行かれているのが怖い。
ついていくことができないことが悲しい。
この悲しさで泣くことができるんじゃないかってくらい、本当に悲しい。
ひょっとすると親が亡くなったら泣くのかもしれない。それはまだわからないけど、でも泣かなかったらその恐怖でうっかり泣いてしまう気がする。
感情に起伏がないのではなくて、死に対する感情だけが抜け落ちてしまっている。
卒業式とかガンガン泣くタイプだったし…。
騙し騙し生きてきたけど今回の件で確実になった気がしたので文字に起こしてみた。
死への悲しみに同調できないことが今後どう作用するかはわからないけど、とにかく今は叔母のメールを見て怖くなっています。返し方わかんねえ。
以上です。
意外とみんなそういう気持ちを持っていたりしてね…あんまりこういう話ってしないし。だとしたらなんか恥ずかしいな。