箱舟
昨夜、童貞を捨てた。
勇んで捧げた僕の意思はあっという間に飲み込まれ、ぬるぬるとした感覚の中に脳みそが溶けていった。気持ち良さを感じる暇がないほどに激しく、僕の上で必死に揺れる四肢がたゆむたび「あ」「あ」と声が零れる。重さに耐え切れず呻くと、彼女はニヤ、と笑っておもむろに唇を奪ってきた。
息苦しさと汗ばんだ空気、ラブホテルの一室で感情のない行為が繰り返された。3回果てた後、僕たちは布団に沈み込むようにして寝た。抱き合うことはしなかった。
彼女は終始苦しそうで、何かにとりつかれているようだった。それほどまでに猟奇的だった。
そもそも僕はセックスに憧れがあり、一人で果ててはごつごつとした指の感触に嫌気がさしていた。そこにやってきたのが彼女である。インターネットで知り合い、1か月やり取りをしてセックスをする運びになった。その間に何度も自撮りを送ってきてくれていたし、僕もそれを甘んじて受け入れ、ありがたく使用させてもらっていた。
「自分の輪郭がわからないの」
それが彼女の口癖だった。彼女の腕にはびっしりと自傷の痕がこびりついていて、僕はそれを素直に気持ち悪いと思った。でも、それを言ってしまえば関係は切れてしまう。なんとか彼女に気に入られようとわずかばかりの語彙力を駆使して返信をした。
「そんなことない。あなたは美しいよ」
精一杯の相槌と、それに見合う報酬としての自撮りで僕らは関係性を保っていたように思う。僕はそれ以上の他意はなかった。セックスができればそれでよかった。
彼女は眠っている。何も聞こえない。あまりに無音なので思わず近寄って確認したが、どうやら生きているようだった。肌に触れてみたが特に反応はない。スマートフォンを確認するとまだ朝の8時で、起きるには早すぎる時間だった。
外の明かりが一切入らない空間で、タバコをふかしながら昨日までのことに頭を巡らせる。
風呂にも入らず、ただ欲を満たしたい一心で打ち付けた夜があっという間に過ぎ去った。日常が戻ってくる。耐え難い、地獄のような日々が箱の外で動き始めている。
衝動の余韻がかき消される恐怖に襲われ、僕は慌てて頓服を飲んだ。震える手で顔を覆う。ひたすらに悲しくなって、ベッドの淵でうずくまるようにして泣いた。
「泣いてるの」
彼女は起きていた。僕はこの人の名前さえ知らない。言葉を探しているうちに「おいで」と言われ、素直に従った。女性の肌は柔らかい。思い切り抱きしめられた息苦しさは悲しみを加速させるのには十分だった。ひとしきり泣いて、そのあとにおずおずとキスをした。彼女は何とも思っていないようだった。
「人生がつらい…これから始まる現実が、耐えられない」
初めて会った人に抱きしめられながら、こんなことを話す日が来るとは思わなかった。彼女は「そうかあ」とだけ呟いて、僕の目をじっと見つめた。彼女の眼はどこを見ているかわからないほどに暗く、吸い込まれそうだった。
「一緒に死のっか。どう?」
笑顔で話す彼女の言葉に嘘はないようだった。
言葉の返答に詰まる。
無音の部屋に、そっと現実が入り込んできた。
— sushima (@_ik4s) 2017年9月5日