岐阜→京都
バスの中は暇なので、よく外を眺める。
景観が好きだ。街並みが好きだ。
自然物より、立て込んだ住宅街が好きだ。
手でペシャンと潰しがいのありそうな屋根の並びが好きだ。
鉄塔が好きだ。整列したビニールハウスが好きだ。
区画で整えられた、青々しい田んぼが好きだ。
山の上にポツポツと生える人工物が好きだ。
橋が好きだ。工場が好きだ。
人のためだけに作られた階段が好きだ。
屋上に続く梯子。何が入ってるかわからない筒状の建物に巻きついた螺旋階段。
とにかく好きだ。
汚れた標識が好きだ。下手くそな道案内をしてくる看板も好きだ。
背伸びしたSAが好きだ。そんなかしこまらなくてもいいのに、田舎でオシャレしてる中学生みたい。
ビュウッと横を通るトラック。シルクのようにうねる高速道路を慌てて走る車たち。Y軸に折り重ねられた道路の様相は私たちの創造する近未来を彷彿とさせる。
好きだ。人工物はこんなにも美しい。
ところで、自然物の中だと雲が好きだ。
綿菓子を無理やり引きちぎったような切れ目が好きだ。
時折見せる地獄のような紅が好きだ。その横で優しく漂う橙も好きだ。
白と青のコントラストはキレイだ。
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バスに乗って1時間が経った。
つくのは17時を過ぎるから、もう少し、まだまだかかる。ありがたいことにWi-Fiが使えるのでアニメを見たりしたのだが、感覚過敏でイヤホンを引きちぎりそうになってやめた。
最近耳から首回りの感覚がおかしい。空気が触れているだけで切り落としたくなる。今も襟元を気にしながら、これを書いている。
「書く」という言葉を人が目にする時、いつだってイメージはアナログだ。机に向かい、紙とペンを用いて文章を「書く」。
だとしたらこれは「打つ」になってしまう。でもスマートフォンで「書く」と打つと、出てくる絵文字は「✍️」になる。変ですね。
タイプライターは「打つ」で正しいはずなのに、スマートフォンになると「書く」に寄ってしまう気がするのはどうしてだろう。
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先ほどまでカフェにいた。
タバコを吸いながらスマホをいじっていると、隣に男性2人が着席。年齢は六十そこそこ。「昔はここでよくサボってたよ」と片方が快活に話すが、もう片方は「うん…」と素っ気ない。ただその後も「あの映画はダメだ!今度はワンダーウーマン行くか!」「うん…」「ところでなあ!」「うん…」と穏やかに会話が展開されていた。
「いいなそれ」と思った。
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ところで1人で京都に来るのは3回目。
京都は落ち着く。鴨川も好き。
よそ者受け入れ態勢が整っている感が落ち着くのかもしれない。名古屋の方が緊張するもの。
1人でうろついても大丈夫。みんなよそ者だから、変な目で見られたりしない。
森見ワールドというにはやや俗世的ではあるが、そもそも私が俗物的な時点でマッチしなきゃおかしい。
黒髪乙女はいないし下鴨神社に猫ラーメンは無い。薔薇色のキャンパスライフは鴨川に沈められ、私は何故かなけなしの金で京都に誘われている…。
それでいい、Let's 俗世。
サナトリウムKYOTOでさっぱりして、また沼のような岐阜に帰ろう。
あそこは空気が悪いんだ。
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1ヶ月半前に見かけた工事がまだ終了していない。
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