あんまり死なない方がいいですよ。

この一年で体験したことを遺しておく。

幸せの形がわからないまま大人になってしまった

https://twitter.com/_ik4s/status/902432221620879360

 

子供の頃、「自分にとっての幸せ」が可視化されていないと不安でたまらなかった。

あまり治安のよい小学校ではなかったから常にだれかは無視されていて、皆そちら側に回らないように必死だった。でも「次、私だ」とはっきりと自覚した瞬間があって、現状から脱却する術をない頭で考えた。それはもう全力で。

その結果生まれたのが「友情を確認し、残しておくこと」だった。

中庭に呼び出したような気がする。当時の友人(だと思っていた人)に心臓が冷たくなるような感覚をこらえて手渡したんだ。返ってくる手紙の中には「友達に決まってるじゃん★」といったようなことが書いてあった気がする。「友達ですか?」の質問に「はい・いいえ」で答えてもらって、もしかしたら「・」に〇がついていたような気もする。とにかく心臓が痛くて仕方がなかった。ホッとしたような心地もなかった。

でも、「これで大丈夫だ」と思った。

 

その後、友人たちから無視されるようになった。先生は助けてくれなかった。

 

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振り返ってみれば手紙に書いた友好の証明は私にとって幸せ以外の何物でもなくて、その名残が「人からもらった言葉をスクショする」という形で続いている。

結局消えていない他人からの承認に対する執念と、物覚えの悪さ。

どれだけ嬉しかったことでもその日のうちにすっかり忘れてしまって、私自身は毎回初めてのような喜びがあっても相手はたまったものじゃないと思う。褒めてもらった記憶だけはぼんやり残っているから、相手がどんどん疲弊していく様子を見て「嫌われた!」と感じてしまう。面倒すぎるだろ。どうしたらいいんだ。

 

不確かな人間の感情と記憶力の悪さは好意的にマッチングしない。

だから人は結婚を「幸せの形」として紙に残し、社会に刻んでいくんだと思う。

ハッピーな脳内から絞り出した汁をインクにして書かれた婚姻届。

でも、それはあくまでも結婚をゴールとしてみる場合であって、二人の間に異性としての感情がなくなっても、子供のためだと不満を抑えて共同生活を続けようとも、「結婚は幸せ」と言えるかといえば疑問。

そもそもうちが片親(両親の仲は良好)だったから結婚に対して然程思入れもなく、「こんな結婚生活がした~い!」と思えるような存在もなかったから、結婚をより現実的に考えてしまうのかもしれない。

 

結婚以外の幸せって可視化されるのか?と一人でうんうん悩んでいるうちに人生に躓き、やっと起き上がり後ろを見てみれば、21年同じようなことを考えていたのかと唖然としてしまった。

ずっと人間関係に疑問をもって生きてきている。

幼稚園の頃は子供が嫌いで仕方なかったし、小学生の頃は見えない関係の糸を手繰り寄せるのに必死で、中学生からは他人を一気に見下し厭世的な小説を読み漁った。高校時代が一番健全だったように思う。あっ。この頃も感情が見えないのが怖くてアンケートとって無理やり生徒と生徒会の関係性に糸を作り出していたことを思い出したぞ。殺してくれ。

 

友好届は子供のころの私の思い出を供養するために作りました。思い出が思い出なだけに斜に構えたような見方をしてしまうけど、意外とポジティブに見ている人が多くて驚いている。そうか…友人関係の可視化も幸せの形なのか…。

そうか?

 

でも、幸せに形なんかなくても「あ、今幸せだ」と口に出すことで、シャボン玉のような儚さを含んだ幸福を感じることはできるんじゃないだろうか。

結婚していなくても幸せな人はいるし、友人が少なくても幸せな人はいる。それは確実に存在していて、その人たちを崇拝するわけではないけど、そういうルートもあることだけは頭に入れておきたい。

ちなみに私が突っ走っているのはメンヘラルートですが、障害抱えても幸せな時があるので大丈夫です。死にかけるくらいで特に支障は…。

 

人生や恋愛、精神のことを特に何かを調べることなく考えてしまう。酔っぱらうとそれが顕著に出てしまうため私と話すのはかなりつまらないと思いますが、知らねえよ。コミュニケーション取っていこうぜ。それが今できるあなたと私の関係の糸。

 

 ちなみにこういう話をしたのは今幸せだからです。ヒャッホー!

 

死 どうでもいい

「死 どうでもいい」で検索をした。

そこには自分の人生を破滅へ向かわせている人と、他人の死に執着する人を小ばかにしている人が存在している。

昔から人が死ぬことに対して何も思わなかったから、その二分で人間を分けるなら後者に近い。でも小馬鹿にはしたくないし、なんなら人の死に涙を流す姿は美しいと思う。そこまで感情を揺さぶることなんだなとハッとさせられる。

 

小さいころから葬式では泣かない子供だった。祖父が死ぬ直前、家族全員が祖父に泣きながら呼び掛けている中、私は気にも留めずゲームをしていた。ハムスターが死んだとき、土に埋めてすぐ「次は何を飼う?」と家族に聞いたのを覚えている。同級生の葬式ではしんみりした空気に耐え切れず笑いを咳で誤魔化していた。父方の祖母の葬式ではそもそも面識がないから遠い話のように思えて、全員が唱えるお経を聞きながら耳がボワボワするのを感じていた。

全部が異世界の話みたいな気がする。死がイレギュラーなことだとはわかっていても、死んでしまったらそれはただの物でしかなくて、天国とか地獄とかそういう話は死者が見る夢でしかない。

死後のことは私たちが押し付けていいものではないはずなのに「さみしくないように」とか考えてしまうことが、よくわからない。でもそういう概念がこの世には蔓延っていて、だから人は死者とお別れをするために儀式を設けているっていうのは理解している。そして何度も言うけど、それを小馬鹿にはしたくない。素晴らしいことだと思う。

 

だから、そこに入れないのがとても悲しい。悲しいし、泣いてみたり考えたりしても私にはどうしても猿真似になってしまう。死ぬ直前までは確実に生がある。どうしたらいいかわからないなりに何か手段が取れるなら、おそらく取ると思う。泣くと思うし神様に祈りをささげることだってする。存命の可能性が5割あればそういった対応する。

でも、もう死ぬだろうなってわかれば、何もしないかもしれない。それはもう物に近い。物にはなにをしても利益が生まれない。意識があるならせめて手を握ってやるくらいしかできないんじゃないか。

ゲームや映画で、犬や幼い女の子が死ぬ間際のシーンはボロボロ泣いてしまう。自分よりはるかに弱いものが抗えない何かによって無残に死んでいくのはどうしたって悲しい。それは死に対して泣いているのかはよくわからない。でも死に対して泣いてたらホラゲとか嗚咽漏らして泣かないといけない。

父と子の関係性の解消。相棒の関係性の解消。

そういったものに涙を流していると考えるとしっくりくる。

 

以前亡くなった人に対していろんな人が思いをつづっていた。それぞれの弔い方があるんだと思った。繊細な問題であることも十分に理解しているし、特筆すべきこともなかったから何も言わなかったけど、そこではっきりと「何か…見え方が違う」と感じたのを覚えている。

 

そして先ほど祖母の家で飼っている猫が亡くなった。叔母がひどく悲しんでいるようだった。

何を言ったらいいかわからなかった。何も思わなかったから。

小学生のころから一緒にいた猫なのになんとも思わなかった。二度と会えないということは私にとってさほど重要な問題ではないから、そうすると死が本当にどうでもよくなってしまう。

 

周囲は悲しいのにその感情に置いて行かれているのが怖い。

ついていくことができないことが悲しい。

この悲しさで泣くことができるんじゃないかってくらい、本当に悲しい。

 

ひょっとすると親が亡くなったら泣くのかもしれない。それはまだわからないけど、でも泣かなかったらその恐怖でうっかり泣いてしまう気がする。

感情に起伏がないのではなくて、死に対する感情だけが抜け落ちてしまっている。

卒業式とかガンガン泣くタイプだったし…。

 

騙し騙し生きてきたけど今回の件で確実になった気がしたので文字に起こしてみた。

死への悲しみに同調できないことが今後どう作用するかはわからないけど、とにかく今は叔母のメールを見て怖くなっています。返し方わかんねえ。

 

以上です。

意外とみんなそういう気持ちを持っていたりしてね…あんまりこういう話ってしないし。だとしたらなんか恥ずかしいな。

京都→岐阜

楽しみというのは毎度のことあっという間に過ぎ去ってしまい、今残っているのは足の鈍痛だけ。

美術館前で力尽きてしまったので、暇つぶしで今これを書いている。

色々暇つぶし方を考えたが体力が残ってないし、京都に来てまでヒトカラ?となるし、そんなことでお金を使いたくないし。

そもそもこんな早くから外に出るべきじゃなかった。でもギリギリに着くのも怖い気がする。

 

だからって5時間前はおかしいだろ。

確かに。ぐうの音も出ない。

 

京都に行く時、いつも「京都大学に行きたい!」しか言わなかったことが災いし、私の京都観光スポットは京都大学しかなかった。

なので今回はかなり京都した。

 

経路としては

平安神宮→人力車で南禅寺→糺ノ森→下鴨神社

記憶が抜けてなければ確かこんな感じ。

鴨川デルタも行った。ちょうど大学生が映画を撮っていたようで、エモさが増していた。

神社っていうのはなんであんなに涼しいんですかね?涼を求めた職人の技?それとも霊とか神とかそういう…神通力?少なくとも何かただならない力が作用してそう。神社に住みたい。

途中でお蕎麦を食べた。お腹空いてたはずなのに3口目くらいで「もういいな…」となってしまったのが不服だった。京都の暑さにやられたとしか思えないが、だからって…。

あと、人力車すごかった。本当に暑くて立ってるだけでHPが抉られるような日だったけど、人力車のお兄さん超笑顔で車押しながら話してるの。やばい。労働っていろんなものがあるけどなんか…すごい労働らしいというか…乗ってるこっちが「話さなくていいよ…」って言いたくなるくらい話す。お兄さんあの後大丈夫だったかな。

 

通り過ぎる人が関西弁と少し違うツンとした方言を話していると「内の人だ…」とビビるのですが、基本こっちが海外に迷い込んだかと思うほどのよそ者の街ですね、京都は。

次行くのはおそらく京都大学の学祭になります。ずーーーーーーーっと行きたかったのね…。また夢が叶うね…。

自分の大学の学祭が11月の頭にあっていつもバタバタして行くことができなかったので、とても嬉しい。あ、もちろん自分のところも行く予定です。後輩で仲良くしてる子がいるのと、先輩たちも集まるので…いや私ドロップアウトしてるんだけどね。

 

明日は通院です。特に話すことがないのでADHDのことについて聞いてこようと思います。

 

岐阜→京都

バスの中は暇なので、よく外を眺める。

 

景観が好きだ。街並みが好きだ。

自然物より、立て込んだ住宅街が好きだ。

手でペシャンと潰しがいのありそうな屋根の並びが好きだ。

鉄塔が好きだ。整列したビニールハウスが好きだ。

区画で整えられた、青々しい田んぼが好きだ。

山の上にポツポツと生える人工物が好きだ。

橋が好きだ。工場が好きだ。

人のためだけに作られた階段が好きだ。

屋上に続く梯子。何が入ってるかわからない筒状の建物に巻きついた螺旋階段。

とにかく好きだ。

汚れた標識が好きだ。下手くそな道案内をしてくる看板も好きだ。

背伸びしたSAが好きだ。そんなかしこまらなくてもいいのに、田舎でオシャレしてる中学生みたい。

ビュウッと横を通るトラック。シルクのようにうねる高速道路を慌てて走る車たち。Y軸に折り重ねられた道路の様相は私たちの創造する近未来を彷彿とさせる。

 

好きだ。人工物はこんなにも美しい。

 

ところで、自然物の中だと雲が好きだ。

綿菓子を無理やり引きちぎったような切れ目が好きだ。

時折見せる地獄のような紅が好きだ。その横で優しく漂う橙も好きだ。

白と青のコントラストはキレイだ。

 

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バスに乗って1時間が経った。

つくのは17時を過ぎるから、もう少し、まだまだかかる。ありがたいことにWi-Fiが使えるのでアニメを見たりしたのだが、感覚過敏でイヤホンを引きちぎりそうになってやめた。

最近耳から首回りの感覚がおかしい。空気が触れているだけで切り落としたくなる。今も襟元を気にしながら、これを書いている。

「書く」という言葉を人が目にする時、いつだってイメージはアナログだ。机に向かい、紙とペンを用いて文章を「書く」。

だとしたらこれは「打つ」になってしまう。でもスマートフォンで「書く」と打つと、出てくる絵文字は「✍️」になる。変ですね。

タイプライターは「打つ」で正しいはずなのに、スマートフォンになると「書く」に寄ってしまう気がするのはどうしてだろう。

 

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先ほどまでカフェにいた。

タバコを吸いながらスマホをいじっていると、隣に男性2人が着席。年齢は六十そこそこ。「昔はここでよくサボってたよ」と片方が快活に話すが、もう片方は「うん…」と素っ気ない。ただその後も「あの映画はダメだ!今度はワンダーウーマン行くか!」「うん…」「ところでなあ!」「うん…」と穏やかに会話が展開されていた。

 

「いいなそれ」と思った。

 

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ところで1人で京都に来るのは3回目。

京都は落ち着く。鴨川も好き。

よそ者受け入れ態勢が整っている感が落ち着くのかもしれない。名古屋の方が緊張するもの。

1人でうろついても大丈夫。みんなよそ者だから、変な目で見られたりしない。

森見ワールドというにはやや俗世的ではあるが、そもそも私が俗物的な時点でマッチしなきゃおかしい。

黒髪乙女はいないし下鴨神社猫ラーメンは無い。薔薇色のキャンパスライフは鴨川に沈められ、私は何故かなけなしの金で京都に誘われている…。

それでいい、Let's 俗世。

サナトリウムKYOTOでさっぱりして、また沼のような岐阜に帰ろう。

あそこは空気が悪いんだ。

 

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1ヶ月半前に見かけた工事がまだ終了していない。

 

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言い訳と語彙力

よく「語彙力があるね」「思慮深いね」と言われる。

褒められるのは素直にうれしい。ありがとうございます。

でも言語化できる能力があるというのは、思っていることを可視化する能力があるってだけで、考えていること自体が特異というわけじゃない。

もし特異なのだとしたら関わってくれる人はもっと少ないと思う。だから私は思慮深いわけではない。あと別に特異じゃなくていい。生きづらいだろそれ。

 

というか21年生きていればそれなりに荒波にも揉まれるだろうし、人間関係で頭を悩ませることもあると思う。その悩みの大なり小なりは関係なく、全員どこかで壁にぶち当たって寝れない夜を過ごしたに違いない。だから人類等しく思慮深いんだろう。思慮深くなければ自意識に悩まされることも、意味もなく涙を流すこともない。それを恥ずかしげもなく出して、こんなところで無為に叫んでるのが私。

 

で、「語彙力があるね」においては、簡単に言えば化粧みたいなもんで、不格好な文章にぱたぱたとおしろいを塗っているイメージ。せめて人前に出るならって化粧するでしょ。そのイメージです。人に説明するときなんかは一番最高のコンディションを提示しないと負けちゃうから、語彙と表現フル活用で臨む。きっと化粧ならデパコスガン決め。

そう考えると文章はコスパいいなあ。

 

ツイッターやブログなんかだと文章が上手なだけで「それっぽく」見えてしまう。前面に押し出されるのが文章の世界だからそうなるわけで、語彙力を取り上げたら何も残らない人は多いんじゃないかなんて思う。そういう人はアルファツイッタラーとかでコンテンツ化していく印象。適材適所って言葉が似合う。別に否定しているわけじゃない。

顔がいい人の話がつまらないのは顔に価値があるから文章スキルを磨く必要がないためであって、文章しかとりえのない人は”こういう”世界に逃げ込むことで体裁を保って、価値を捻出しているように見える。自分に刺さりまくってるけど大丈夫かなこれ。

だから文章がうまい人ってのは人生の言い訳が得意な人なんだよ。真面目な語彙でそれっぽいこと言われたら「それっぽいな~」ってなっちゃうもん。頭良く見えちゃうもん。バンドマンがステージに立つと神に見えちゃうあの現象と一緒だよ。

私だってテストの点数が悪かった時、人間関係に不和が生じる予感がしたとき、意見が押し通されそうなとき、ありとあらゆる文法を用いて人生を切り開いてきた。その度に誰かは「それっぽいな~」って顔してくれてた。

美人が「これうまい」って言うだけで宣伝になる中、こっちは1500文字の渾身のレビュー書いてやっと普通に並べるの。そりゃ多少上手くもなるわ。顔にも中身にも価値がなかったから必死で磨かざるを得なかった。顔の次に表面に出せるもの、それが文章だったから。中身があるように見せかける練習は怠らなかった。

だってどれだけ自分のことが嫌いでも自分以外の体で生きることはできない。自意識を殺そうとしても殺そうとしている自分も気持ち悪いくらい自意識の塊で、20年かけて一緒に生きていくしかないって思えた。やっとだよ。おっせえよ。

ひのきのぼうみたいな文章力だけひっさげて図々しく生きていると、生きるの実は得意なのでは?と考えたりする。でも得意な人はそもそもこんなこと考えないな。

 

文章は魔法。文章はまやかし。文章は嘘。

こんなふわっとしたもので人の心を裏返すことができるんだから本当にすごいと思う。

 

最近ずっと考えているのが「妹としか見れない」って当時好きだった人に言われたこと。その時は突然だったから意味が分からなかったけど、今になって「あの時点で振られていたのか」って思うようになった。それをずっと頭の中で反芻している。

自分にとっては些細なことでも、相手にとっては人生をゆがませるくらい大きいものだったりする。

でも、他人の心にはなれないから何が悪いかなんてわかるわけない。経験則すら通用しない。一人一人にマニュアルが存在してしかるべきなのに「自分でも自分のことがわからないの…」なんて言いやがるからわかるわけねーんだよ。私も自分のこと全然わかんねえ。

だから注意を払っても相手が傷ついた場合は完全にそりが合わないってやつなので離れるのが吉。互いのために。運が悪かったってだけ。誰も悪くない。

 

何が言いたかったって「言い訳の練習してれば文章がうまくなるよ」って話だよ。

ほら、飾らなきゃ1文で終わる。話なげーよ。やめちまえ。

 

や・め・ま・せ~~~~~~~~~ん!!!!!!!!

 

 

www.youtube.com

 

大好きな曲でおやすみなさい。

新しいパソコン

3年使用したパソコンがだいぶ苦しい状況になっていたので、新しいパソコンを買うことにした。

もともと書式データを扱う以外で使う予定がなかったものだから、サークルでイラレを使ったこと自体予想外だったし、動画を作るなんてキャパシティを超えてしかるべきだったのだ。よく頑張ってくれたと思う。でもインターネットとWord開いただけでフリーズするのはおかしいだろ。ゆっくり休んでほしい。

 

といっても何が良いPCなのかさっぱりわからない。詳しい人の知恵を借りながらなんとかカスタマイズをし注文。昨日の夜に届いた。

でっけえしサクサク動く。キーボードはちょっと打ちにくいけどしばらくしたら慣れると思う。なんかキーが深いのだ。どっちかっていうと浅いほうが好き。でも深いほうが打ち込んでいる感じがする。それも悪くない。

とりあえず新品のにおいがしてワクワクした。クリエイトするための相棒だ。

50年は使って元を取ってやろうと思っている。

 

15万したのだからそれを返済していかなくてはならない。当面お金が入るタスクがしばらく続くが、体をぶっ壊さない程度に、しかし着実に頑張っていこうと思う。

無理をしなきゃいけないのは承知。そうしないと普通の働きができない。でも無理をしたなら絶対休む期間をつくる。これは誰もがしていること。

これができないなら自分じゃなくて取り囲む環境が悪いと言わざるを得ない。

「ほどほどに」の「ほどほど」がわからないから、こういうやり方をしていくしかないんだよね。仕方ないね。

 

 

これは新しいパソコンで描いているんだけど、無料でついてきた冷却台がブーンと振動していて、なんか、クリエイターのPCぽい。

絵を描いている以上それはもうクリエイター以外の何物でもないんだろうけど自意識が恥ずかしがっているようで、それが言葉の節々に出てしまう。そしたら「恥ずかしがってちゃだめだよ」と言われた。普通にばれていた。でもおっしゃる通り。

以前まではただの落書きをする人だったけど、SUZURIで実際に購入してくれる方がいらっしゃった時点でもうこれはクリエイターを名乗らざるを得ないな…となるなどしています。本当にうれしいです。ありがとうございます。

私の身の回りで仲良くしてくださっている人は体調の関係で仕事に出られなかったり、自分を第一に考えてほしい人ばかりなので無理に買って!!とお願いするつもりはないです。頑張って稼いだお金は自分のために使ってほしいし。

でもその努力の結晶を少しでも私が生み出したものに価値を見出して消費してくれるとなれば、これほどうれしいことはないなと思います。

SUZURIは原価からプラスして自分の取り分を決めることができるのですが、とりあえず一番低い+100円設定で販売しています。お金に余裕ができて、ちょっと買ってみようかな…と思っていただけたら幸いです。

仕事の合間に更新していく予定なのでツイッターでもなんでも「こんなの欲しい!」というのがあれば連絡してください。画力の追いつく限り対応します。

 

suzuri.jp

 

 

最近なんだか忙しい。悪いことではないんだけど、一つずつこなしていけたらと思う。

デパス効いてきた。寝る。あなたも寝ろ。

 

調子がいい

調子がいい。かなりいい。良すぎる。

人生の7割がローテンションだったから「死」に向き合わない時間がイレギュラーに感じる。とにかく心地は良いのだが、なんだかソワソワする。

ソワソワと言っても躁転のような「よっしゃ外行こうぜ!(実行)」みたいなのはなくて…ああでもどうなんだろう。手持ち無沙汰な感覚が続いているから躁転を引きずっているのかもしれない。

 

絵を描いて昇華していたものがどうも満杯になってしまったようで、描いてもあまり楽しくない。離れる時間も必要なのかな。そもそもそんなこといえるレベルじゃないな。

何をしてもつまらない。話そうが食べようが創作しようが聞こうが、なんかつまらない。体力はないから自分の体力以上のことをし始めると途端に寝始めてしまう。でも寝るのも苦しい。眠りが浅いし、すぐ目が覚める。キャスを開いても終われば虚無。誰かのを聞いててもぼんやりしている。頭に靄がかかってるみたい。

ツイッターだけは反応が返ってくるから楽しい。でも、前より楽しくない。

死にたくはないけど楽しくない。でも調子は良い。良い兆候だと思う。

 

ただ振り切れないと私の文章つまらないって有名なので、そろそろ落ちてくれてもいいよ~。というか波があるのに落ちないのおかしいよ。大丈夫か。

これも退屈しのぎの一環なのでお付き合いください。

 

 

自己肯定感の話

自己肯定感がブチ下がっているという話やツイートは散々していますが、精神が下がることがなくなった分自己肯定感は浮遊してきているっぽいです。「生きていい」とかそういうことすら考えなくなった。正の感情を吐き出す時はその裏側に負の感情が確実に存在しているわけで、それがなくなった。

生きることが日常になりました。

25歳で死ぬとか言ってたのもまあたまには思いますが(お金の面とか仕事の面において)今は特に死ぬことも考えてないです。

薬の力なのか~~薬ってすげえな~~~。

 

ただ人生の主軸が顔面?女性性?から創作にシフトしただけな気もするので、創作拗らせたらあっさり死ぬと思います。若さのように創作に期限はないにしても個人の中で満足しなければやっぱりつらい。絵を人生から引き剥がすことは考えられないから抱え込んだまま一緒に死んでいくんだろうな。

 

まあ今は死なないです。よかったね。

 

 

黒髪最高って話

過去に一回だけ茶髪にしたことがあるんですが「これじゃない」感がすごくて、染め直しをせずにそのまま黒髪に生え変わるのを待ちました。

黒髪の女性が好きです。日本人の顔にはやっぱり黒髪でしょ。もちろん海外の方の強いお顔に黒髪も強い×強いで素敵だと思うのですが。そもそも染め直す必要もなくお手入れをきちんとしていれば痛むこともなく、ボブでもセミロングでもロングでも素敵な女性になれるのは黒髪だけでは?完全に私個人の趣味になりますが、男性受けもよい気がしますね。

玉のように滑らかな白い肌にサラサラの黒髪が映える映える。そこに一線紅を引けばBEST OF SAIKOU 女が出来上がってしまいますね。なんですかそれは?なんて素敵なの…ありがとうございます。この世に生を受けたことに感謝…あなたも、私も…。

 

色白黒髪赤リップは3種の神器というお話でした。

 

 

音楽の趣味が変わってきた

もともと嫌いではなかったのですが、昔はどっちかって言うと「邦ロックだぜ!!!!!!ウラウラウラウラウラウラ」みたいな曲が大好きで、例を挙げるとするならキュウソネコカミ、KEYTALK、THE ORAL CIGAなんちゃら、日曜だし邦ロック好きとつながりたい…。みたいな音楽が好きでした。殺してほしい。

 

最近は大人しい邦ロックが好きです。


ヨルシカ - 言って。(Music Video) / Yorushika - "Say to"

 


mol-74 - % 【MV】

邦ロックからは一生抜け出せない気がする。英語何言ってるかわかんないんだもん。

 

 

薬飲み始めて調子はいいんだけど何が悲しいのかもわからなくなってきた。

多分なにも悲しくないんだと思う。よかったね。

終わり。