諦めは後退ではない
生きることで様々なことを諦めるようになる。
それなりにいろんな経験をしてきたような、してないような不明瞭な人生の中で、諦めは大きな意味を持つようになってきた。
それが辛いことだったような気もするし、意外と気にならなかったりもする。
もちろん、後から思い返して「諦めなきゃよかったなぁ」と後悔することもある。
楽器がそれだ。一つでも続けておけば、もう少し深い人間になれていた気がする。
受験とか、病気とか、そういうきっかけのなかで「諦めざるを得ない」現実に直面したのが大きいのかもしれない。
これは私が人より大変だとかそういうことではなくて、生きている人間だれしもが辛い選択を強いられていると思う。あえて書いておきますね。
私は大変ではないです。大変だと思わせているのは脳の構造のせいです。
あと、そうやって「苦しさと向き合うこと」を諦めることでかなり生きやすいということに気づいてしまったのもある。
それはそれでいいと思う。
思考が加速していく中で諦めなければならない範疇は確かに存在する。
相手の気持ちまで考え始めたらその思考は途方もなく、救いもなさすぎる。
こういう話を書こうと思ったのは「可能性」の話をツイッターで見かけたから。
私は「可能性」に縛られて高校時代を生きたので、この言葉にどれだけの魔力と拘束力があるかは十分に理解している。
「可能性」は思うように可視化されない。素直に受け取ることも、発信することさえままならない、非常に繊細で危険な概念だ。
個体値というのも残念ながらある。「才能」とか「地頭」ってやつ。他の教科は勉強しなくてもせいぜい50点は取れていたのに、物理だけは何をしても32点しか取れなかった残念な私の頭が証明している。(欠点じゃないことが奇跡だった)
そういうことがあるから「可能性」っていうのは人を苦しめることになる。
「好き」と「才能」が合致することなんてまずない。
でも、どっちかっていうと個体値よりかは、「やり続けられる力」を「才能」と呼びたい。
大成しなかったとしても何かをやり続ける気力、時間、浪費、全てを気にせずに没頭できるのは「才能」ではないだろうか。
それが社会的によいかどうかではなく、何かに己をささげることで人生が豊かになるのであれば、存分に才能を発揮したい。あくまでも私はそう思う。
ひょっとしたら、何かの間違いだったとしても小さな芽が出るかもしれない。
暗闇を永遠に掘り続けながら、いつかシャベルに音が当たるかもしれない。
その途方もない「かもしれない」に「可能性」を見出すことこそが「才能」なのではないか。
不格好でも、ダサくても、がむしゃらにやるのはかっこいいと思う。
なのでがむしゃらに生きようと思います。才能なさそうだけど。押忍。
で、「諦め」と「可能性」を結びつけたのは、諦めることですべてが終わってしまうのではなく別の可能性を伸ばすという方向に考えられないかと思ったから。
全部を追いかけていたら何も得ることができないように、休むという選択や仕事を辞めるという選択は「自分を生存させる可能性」を明らかに伸ばしているわけで。
生きていれば何でもできるんですよね。できないときは「できる可能性を養っている」って考えていけたらいいなと思う。
何回でもいうけどあくまでも私の人生観なので、自分の生きやすい道を見つけることが生存戦略。
そう思う中で、誰かと誕生日が同じとか、有名な人と同じ境遇であるという事実は絶対的で、揺らぐものではない。
ただそれを目標にするのではなく「持続力をチャージするもの」として利用するのが良いのだと思う。自分は相手になれないし、相手も自分にはなれないから。
上位互換とか下位互換のことを考えるのではなく、自分本位でもう少し図々しく生きてもいいのでは?
誰かになろうとするの、絶対疲れちゃうでしょ。
別の個体になるんじゃなくて、自分を永遠にアップグレードしていきたいな。
最近は幸せです。新たな楽しさに気づいたり、バイトを始めたり(今日は電話できなかったけど)、少しずつ自分がアップグレードしている実感があります。
今はエスターを見返して「こんなところにも伏線が…」とニコニコしている。
デフラグして中身の整頓をしたり、そこで空いた隙間に何かを詰め込むような人生を生きていきましょう。それには休憩が一番必要です。
バカみたいな文章だ。終わり。